• と言う意味では、ペドロ・コスタ監督『ヴァンダの部屋』も一脈通じるところがあるか。たまたま同じ日に読んだ&見た故の、偶然のなせるこじつけだが。あまりの撮影の鮮やかさ、演出とドキュメンタリーが一体となったかのような手捌き、あまりに見事で何か衝撃を衝撃とまだ見定め切れていないような感じ。
  • http://www.cinematrix.jp/vanda/index.html
  • 薬を吸っているところを延々と撮り続けているから、あまりに貧乏だから、衝撃的なのではない。延々と撮られる薬のシーンも、何か、民俗学者の南米かどこかの記録映画でも見ているような感じで、これはこの人達の日常なのだなあ、としかこの点については思わない。映画自体がヘロインそのものになっていると言うのなら、フィリップ・ガレルの一連の『白と黒の恋人達』などの作品の方だと思う。出てくるスラム街の人たちが貧乏なのも、それは映画的な貧乏さではなく、色彩や照明の見事さはまさしくヨーロッパ絵画の巨匠に匹敵するといいたくなるような物で、貧乏と言うことが衝撃になっているわけではない。カメラが動かないから、小津というのも短絡過ぎはしないか?もはや、『OZU』というのは、映画における普遍的な価値みたいな物で、それだけ言っても何も説明したことにはならない。
  • 多分、彼らがスラム街に住んでいるのではなくて、映画の中に棲んでいるようにみえる、と言うのが衝撃の本質なのだと思う。といっても、スクリーン外の日常を想像出来ないと言うようなハリウッドのスターと言う意味ではなく、棲む場所を追われ、『船を乗り換え』、映画の中に棲みついてしまったような。