ロンドン旅行記(4):倫敦塔

 しかも余は他の日本人のごとく紹介状を持って世話になりに行く宛もなく、また在留の旧知とては無論ない身の上であるから、恐々ながら一枚の地図を案内として毎日見物のためもしくは用達のため出あるかねばならなかった。無論汽車へは乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しようとすると、どこへ連れて行かれるか分らない。この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披いて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を探す、巡査でゆかぬ時はまたほかの人に尋ねる、何人でも合点の行く人に出逢うまでは捕えては聞き呼び掛けては聞く。かくしてようやくわが指定の地に至るのである。(夏目漱石「倫敦塔」)

 夏目漱石は、明治33年(1900年)5月に文部省の命を受け、英文学研究のため英国留学し、明治36年1903年)に日本に帰国するまでロンドンで過ごします。短編(小説と言って良いのかどうか)「倫敦塔」は、1905年1月に『帝国文学』に発表されます。
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 倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。過去と云う怪しき物を蔽える戸帳が自ずと裂けて龕中の幽光を二十世紀の上に反射するものは倫敦塔である。すべてを葬る時の流れが逆しまに戻って古代の一片が現代に漂い来れりとも見るべきは倫敦塔である。人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。(夏目漱石「倫敦塔」)

 ロンドンの地下鉄は1863年に運行開始しています。倫敦塔の最寄り駅Tower HillのCircle Lineは1884年、District Lineは1868年に開通しています。漱石の下宿はテムズ南岸だったようですが、Northern Lineも1868年には開通しています。そこを歩いていったんですね。地下鉄にもバスにも乗らなかったんですね。でも、時は1900年です。「地球の歩き方」なんて、当然、まだありません。19世紀最後の年にやってきた漱石の目に映ったロンドンはどれほどの驚きだったでしょうか。「漱石発狂す」という噂が流れて呼び戻されるまで、彼はこの地で過ごしますが、彼が全身で感じたギャップというのはどれほどのものだったのでしょうか。ホイホイと飛行機で12時間くらいでやってきて、数日間お気楽な観光客をやって帰って行く2009年の我々と、1900年の彼の間の途方もないギャップ。それが109年間という年月の間に起こった変化なのだと思います。
 ロンドン到着4日目には倫敦塔〜倫敦橋に行きました。私は、テムズ北岸の大英博物館近くに泊まっていたので、バスでまず倫敦塔に行き、その後で倫敦橋に行きました。漱石とは順番が逆ですが、漱石の「倫敦塔」を読み返しながら、写真を見返してみます。109年の年月を経ても、変わらずそこに立ち続ける倫敦塔と変わり続ける私達。倫敦塔の向こうに109年前の漱石の想いは見えてくるでしょうか。

この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古えの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺め入った。
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そうしてその中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔である。汽車も走れ、電車も走れ、いやしくも歴史の有らん限りは我のみはかくてあるべしと云わぬばかりに立っている。その偉大なるには今さらのように驚かれた。この建築を俗に塔と称えているが塔と云うは単に名前のみで実は幾多の櫓から成り立つ大きな地城である。並び聳ゆる櫓には丸きもの角張りたるものいろいろの形状はあるが、いずれも陰気な灰色をして前世紀の紀念を永劫に伝えんと誓えるごとく見える。(夏目漱石「倫敦塔」)



 右手の木に隠れている辺りが倫敦塔です。

空濠にかけてある石橋を渡って行くと向うに一つの塔がある。これは丸形の石造で石油タンクの状をなしてあたかも巨人の門柱のごとく左右に屹立している。その中間を連ねている建物の下を潜って向へ抜ける。中塔とはこの事である。(夏目漱石「倫敦塔」)



 この塔でライオンを飼っていたそうです。

 また少し行くと右手に逆賊門がある。門の上には聖タマス塔が聳えている。逆賊門とは名前からがすでに恐ろしい。古来から塔中に生きながら葬られたる幾千の罪人は皆舟からこの門まで護送されたのである。彼らが舟を捨ててひとたびこの門を通過するやいなや娑婆の太陽は再び彼らを照らさなかった。テームスは彼らにとっての三途の川でこの門は冥府に通ずる入口であった。彼らは涙の浪に揺られてこの洞窟のごとく薄暗きアーチの下まで漕ぎつけられる。口を開けて鰯を吸う鯨の待ち構えている所まで来るやいなやキーと軋る音と共に厚樫の扉は彼らと浮世の光りとを長えに隔てる。彼らはかくしてついに宿命の鬼の餌食となる。明日食われるか明後日食われるかあるいはまた十年の後に食われるか鬼よりほかに知るものはない。この門に横付につく舟の中に坐している罪人の途中の心はどんなであったろう。櫂がしわる時、雫が舟縁に滴たる時、漕ぐ人の手の動く時ごとに吾が命を刻まるるように思ったであろう。(夏目漱石「倫敦塔」)



左りへ折れて血塔の門に入る。今は昔し薔薇の乱に目に余る多くの人を幽閉したのはこの塔である。草のごとく人を薙ぎ、鶏のごとく人を潰し、乾鮭のごとく屍を積んだのはこの塔である。血塔と名をつけたのも無理はない。(夏目漱石「倫敦塔」)


この寝台の端に二人の小児が見えて来た。一人は十三四、一人は十歳くらいと思われる。幼なき方は床に腰をかけて、寝台の柱に半ば身を倚たせ、力なき両足をぶらりと下げている。右の肱を、傾けたる顔と共に前に出して年嵩なる人の肩に懸ける。年上なるは幼なき人の膝の上に金にて飾れる大きな書物を開げて、そのあけてある頁の上に右の手を置く。象牙を揉んで柔かにしたるごとく美しい手である。二人とも烏の翼を欺くほどの黒き上衣を着ているが色が極めて白いので一段と目立つ。髪の色、眼の色、さては眉根鼻付から衣装の末に至るまで両人共ほとんど同じように見えるのは兄弟だからであろう。(夏目漱石「倫敦塔」)




 エドワード4世の王子、エドワード5世とヨーク公リチャードの兄弟は、1483年に父の死後ロンドン塔に幽閉されたまま行方不明となります。王位を簒奪したリチャード3世が殺害したという説など諸説ありますが、真相は不明です。1624年に二人の子供の骸骨が、白塔の壁の中から発見されています。現在、血塔では、この犯人は誰だと思うか?という投票を行っています。また、二体の骸骨が発見された部分の白塔の壁は、川側から登る階段沿いで、通りがかると子どもの声がテープで流されていました。こういう悪趣味な演出をする人たちの祖先なのだから、本当にそういうことがあったんだなあ、と妙に説得力を感じます。

 空想は時計の音と共に破れる。石像のごとく立っていた番兵は銃を肩にしてコトリコトリと敷石の上を歩いている。あるきながら一件と手を組んで散歩する時を夢みている。
 血塔の下を抜けて向へ出ると奇麗な広場がある。その真中が少し高い。その高い所に白塔がある。白塔は塔中のもっとも古きもので昔しの天主である。竪二十間、横十八間、高さ十五間、壁の厚さ一丈五尺、四方に角楼が聳えて所々にはノーマン時代の銃眼さえ見える。千三百九十九年国民が三十三カ条の非を挙げてリチャード二世に譲位をせまったのはこの塔中である。僧侶、貴族、武士、法士の前に立って彼が天下に向って譲位を宣告したのはこの塔中である。(夏目漱石「倫敦塔」)




 今、この塔の内部では様々な王家の武具を展示しています。

余が感服してこの甲冑を眺めているとコトリコトリと足音がして余の傍へ歩いて来るものがある。振り向いて見るとビーフ・イーターである。ビーフ・イーターと云うと始終牛でも食っている人のように思われるがそんなものではない。彼は倫敦塔の番人である。絹帽を潰したような帽子を被って美術学校の生徒のような服を纏うている。太い袖の先を括って腰のところを帯でしめている。服にも模様がある。模様は蝦夷人の着る半纏についているようなすこぶる単純の直線を並べて角形に組み合わしたものに過ぎぬ。(夏目漱石「倫敦塔」)



 ビーフィーターというと、ジンの商品名だとしか思っていませんでしたが、ここから来ているんですね。この塔全体は陸軍によって管理されています。お飾りだけではないようです。


 現在も、このJewell Towerでは王家の戴冠式に用いられた王冠などを展示・保管しています。世界最大のダイヤモンドや歴代王の王冠などが展示されています。この区域は写真撮影禁止でした。

白塔を出てボーシャン塔に行く。途中に分捕の大砲が並べてある。その前の所が少しばかり鉄柵に囲い込んで、鎖の一部に札が下がっている。見ると仕置場の跡とある。二年も三年も長いのは十年も日の通わぬ地下の暗室に押し込められたものが、ある日突然地上に引き出さるるかと思うと地下よりもなお恐しきこの場所へただ据えらるるためであった。久しぶりに青天を見て、やれ嬉しやと思うまもなく、目がくらんで物の色さえ定かには眸中に写らぬ先に、白き斧の刃がひらりと三尺の空を切る。流れる血は生きているうちからすでに冷めたかったであろう。(夏目漱石「倫敦塔」)



 血塗られたイメージがあまりに強いのですが、ここに収容されたのは思想犯や政治犯などが多く、実際に処刑されたのは50人とか100人くらいのものだったそうです。3度もここに収容されたり、10年も家族と幽閉され、子供もこの中で生まれた強者がいたそうです。

烏が一疋下りている。翼をすくめて黒い嘴をとがらせて人を見る。百年碧血の恨が凝って化鳥の姿となって長くこの不吉な地を守るような心地がする。吹く風に楡の木がざわざわと動く。見ると枝の上にも烏がいる。しばらくするとまた一羽飛んでくる。どこから来たか分らぬ。傍に七つばかりの男の子を連れた若い女が立って烏を眺めている。希臘風の鼻と、珠を溶いたようにうるわしい目と、真白な頸筋を形づくる曲線のうねりとが少からず余の心を動かした。小供は女を見上げて「鴉が、鴉が」と珍らしそうに云う。それから「鴉が寒むそうだから、麺麭をやりたい」とねだる。女は静かに「あの鴉は何にもたべたがっていやしません」と云う。小供は「なぜ」と聞く。女は長い睫の奥に漾うているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何か独りで考えているかと思わるるくらい澄している。余はこの女とこの鴉の間に何か不思議の因縁でもありはせぬかと疑った。彼は鴉の気分をわが事のごとくに云い、三羽しか見えぬ鴉を五羽いると断言する。(夏目漱石「倫敦塔」)



 レイブンです。カラスをわざわざ飼っているのは、ここくらいのものでしょう。人になれていますが、大きくて不気味です。

倫敦塔の歴史はボーシャン塔の歴史であって、ボーシャン塔の歴史は悲酸の歴史である。十四世紀の後半にエドワード三世の建立にかかるこの三層塔の一階室に入るものはその入るの瞬間において、百代の遺恨を結晶したる無数の紀念を周囲の壁上に認むるであろう。(夏目漱石「倫敦塔」)





 囚人が壁中に無念の思いを掘ったものがそのまま残されています。

自分ながら少々気が変だと思ってそこそこに塔を出る。塔橋を渡って後ろを顧みたら、北の国の例かこの日もいつのまにやら雨となっていた。糠粒を針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵と煤煙を溶かして濛々と天地を鎖す裏に地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。(夏目漱石「倫敦塔」)



 ちょうどここを出た頃は霧雨でした。

ロンドン塔 - Wikipedia
Tower of London | Historic Royal Palaces