何も言わないより話すことを選んだ

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html

作家の村上春樹さんが15日行った「エルサレム賞」授賞式の記念講演の要旨は次の通り。
 一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
 一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
 一、高い壁とは戦車だったりロケット弾、白リン弾だったりする。卵は非武装の民間人で、押しつぶされ、撃たれる。
 一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
 一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

 「どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ」というのは、当事者にしてみれば微妙かもしれない。ヒットラーだって民衆の支持によって政権についた。自爆テロイスラエル側の遺族とガザ侵攻で家族を失ったパレスチナの遺族を考えれば、両方の側に立つ、というのは、第三者的には正しいが、どちらの側から見ても許し難い、と思われるのではないだろうか。イスラエルの市民とパレスチナの人々は、村上春樹のこのコメントをどう思ったのだろうか。自爆テロイスラエル側の遺族とガザ侵攻で家族を失ったパレスチナの遺族が、共感できるだろうか。敵側にも自分と同じ苦しみが存在しているのだ、ということを認めることが出来るだろうか。現実問題としては、それは難しいと思う。理性では分かっても、それで感情を納得させるのは難しいかもしれない。
 だが、それが甘いとか、言っても仕方がない、というよりは、これを言葉にし、賞賛されたり、憎まれたりするべきなのだと思う。その摩擦によって、第三者というポジションが築かれるのだから。