『日本語が亡びるとき…』:水村美苗

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 最初の3章は小説家水村美苗が書いたもので、次の2章は大学の先生が書いた近代日本文学論で、最後の2章は岩井克人の帰国子女の嫁が書いた本。最初の3章は真面目に読んだが、あとは馬鹿馬鹿しくなってきて、ぱらぱらと読んだ、と言うのが正直なところ。
 乱暴にまとめると、第1〜3章は、

 インターネットの普及でグローバル化が進めば英語のヘゲモニーはさらに確固としたものになり、非英語圏の言葉の地位は低下する。<叡智を求める人々>は、英語で書くことを選択するようになり、<読まれるべき言葉>は全て英語で蓄積されていくようになるのではないだろうか。

 第4,5章は、

 日本が近代化するなかで、従来の日本文化と西洋文化の摩擦の中で、日本近代文学が作り上げられたことは奇跡である。

 第6,7章は、

 もし、漱石が今の時代の人だったら、世界で読まれない日本語などで小説など書かないだろう。英語を読みこなす力は選良のための必須条件であるが、学校教育では日本近代文学を読みこなせる国語力を身につけさせるべきだ。

ということだ。さらにまとめると、「これからは全ての知的な活動は英語の時代になるが、私の愛する日本近代文学が滅びるのは許せない。」ということだ。明晰で理路整然とした第1章から第3章までの流れが、第4章と5章では論理が粗雑で主観的になり、第6章以降はひたすら主観的で所々感覚がずれて論理が飛躍した憂国(語)論に変容していく様は、まことに論理的に奇怪であり、著者の「本格小説」が後半に進むにつれて泥々とした話に変容していくのにも似ており、三島由紀夫の「豊饒の海」を意識したのでもあるまいが、非常に不気味な読後感が残った。
 梅田望夫氏のブログで取り上げられて、それに対するネガティブコメントに同氏が、

はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不明だ。

Twitterで反応→炎上(と言っても、所詮一部の村の中の話だが)したこともあり、Amazonで1位になるは、有楽町の三省堂で見あたらないので店員さんに聞いてみると「今品切れです、さっきも聞かれたんですけど」ということになるは、まあ、話題の本になってしまった。「続明暗」以来、「私小説 from left to right」、「本格小説」、と読んできたけど、まさか、この人がこういう売れ方をすることになるとは思わなかった。こういう書評も出てきたので、そろそろ増刷もかかって、いろいろなところで一般にも話題になって売れるのかな。
 山のように突っ込み処や論点があるのだが、第3章までで述べている「今後集積される人類の思考は英語で書かれるようになる」という認識には全面的に同意する、というより、明治以来理科系の世界ではそうだった訳で、何を今更という感じがする。ただ、ここには一つトリックがある。彼女の言い方であれば、<人類の叡智>と言う表現で、夏目漱石の「文学論」の構想ではないが、全ての人類の知的活動を十把一絡げにして扱いたいようだが、この表現が話をおかしくしているような気がしてならない。
 全ての人間は論理を共有できる。全ての人間が共有できないなら、それは論理ではない。その論理の言葉、数式で記述できる科学技術の知識は、実際に英語が共通の言語になっているし、これからもそうだろう。彼女の言葉で言えば、それは「テキストブック」=教科書ということになる。一方、人文科学や文学の世界では、一人の人間が生きているトータルの世界観を共有することは不可能である以上、世界中全ての人間が一つの文化=言語に根ざした概念や思想を完全に共有することはできない。たとえ、同じ言語圏にある人でも、人によって受け取り方や理解は違う。そもそも、自然科学の世界で共通の理解を持つということと、人文科学で共通の理解を持つということは、かなり違う。
 これは、彼女自身も述べていることだ。彼女の生業とする小説や文学を、論理の言葉で書かれた科学や技術と同列に並べて、<人類の叡智>と言う表現に含めて議論するのは無理がある。この点について、彼女は自覚していない訳ではないのだが、私の小説も<人類の叡智の言葉>の仲間に入れて欲しい、と思ったのか、<人類の叡智>と大風呂敷を広げるところから論理が飛躍し始める。特に、第4章で日本近代文学について述べ始めるあたりから、どうしようもなくおかしな話になっていく。
 尤も、夏目漱石文体模写で未完の「明暗」の続編を書いた「続明暗」でデビューした人が、「学校の国語教育は日本近代文学を読みこなせる国語力を身につけさせることを目標にするべき」と語るのは、何の不思議もない。伊達や酔狂で「続明暗」を書いたとは思っていなかったが、あまりに身も蓋もなくて、唖然としたのも事実ではあるが。米国東部で教育を受けた人らしく、慎み深く書いているようでいて、言っている中身は非常に強引だ。始めて、この本で彼女を知る読者は、まず、この感覚が理解できないだろう。彼女は、この本の読者として、旧来の自分の著作の読者を頭に描いていたのではないだろうか。始めてこの本で彼女を知る人を想定していたとは思えない。
 それでも、様々なことを考えさせる本ではあるし、最初の3章は多くの人に読まれるべきだと思う。ここで止めておけば、梅田氏が言うように「すべての日本人が読むべき本」だったと思う。この本が、

 それでも、もし、日本語が「滅びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。

と締めくくられるように、第4章以降の議論が無駄なことは、彼女自身も分かっている訳で、この本の後半は「小説」として読むべきものではないか、とも思う。彼女が提起した「グローバル化時代の日本語」という問題は重要な話だが、それを彼女は「グローバル化時代の近代日本文学」というもはや存在しない問題に置き換えてしまったことが、この本を決定的に訳の分からないものにしている。「近代日本文学」なんて、もはや日本には存在しない。それを浦島太郎のようにアメリカから帰ってきた女性が書いている、ということが、彼女の存在の衝撃だったと思う。それが、こんな身も蓋もないものを書かれてしまうと、ただの日本オタクの帰国子女だったのか、と言う気がして、幻滅である。高橋源一郎がどこかで喝破していたように、日本の近代文学というのは、帝大生が身分違いの女性との恋に悩む話だった訳で、そういう世界にまだ生きている人なのだから、「日本文学の現状に、幼稚な風景を見出したりする」というところに引っかかっても無駄だと思う
 文学という観点から本質的に論じるべきことは、夏目漱石から水村実苗に至るまでの近代日本文学というのは、翻訳不能というよりも、ガイジンが読んでも何も面白くないだろうな、ということだろう。全ての文学は翻訳不可能だ、というテーゼもあるが、そういうレベル以前の問題として、近代日本文学というのは、極論すれば、夏目漱石以来、日本のインテリの同人誌の情緒的な楽屋落ちだったのではないか。相互に了解可能なものを前提として書かれたものではなかっただろうか。カフカとか、ボルヘスとか、ドストエフスキーとか、そういう作家は、私は翻訳でしか読んだことはないが、外国語に翻訳してもきちんと骨格が残るような「論理」があるような気がする。勿論、言葉の響きの美しさとか含意は失われるだろうが、それでも残る論理で書かれているような気がする。「敷島の大和心」の類は、<人類の叡智>になりえない。言語や文化、世代を超えるのは、論理にまで達した思考だけだ。