「 ハイエク 知識社会の自由主義」池田 信夫
- 作者: 池田信夫
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2008/08/19
- メディア: 新書
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以下、ポストイットを張ったところを抜き書きしながら、つらつらと思ったことをメモ。
彼はまず、市場が効率的な資源配分をもたらすという新古典派経済学の結論は、ある条件に依存していると指摘する。その決定的な条件とは、すべての人々が無限の将来にわたる完全な情報を持っているということである。(p.71)
こういう大前提がおかしな話が教科書に載っているような理論にはたくさんある。でも、経済学って、学問とはいえない世界だな、ということが、この本のケインズとハイエクの論争のあたり読むと良く分かる。
人々は自然と秩序を二分する思考になれているが、ギリシャ人は二種類の区別をしていた。人為的な秩序(タクシス)と自然発生的な秩序(コスモス)である。・・・これをハイエクは「自生的秩序」と呼んだ。(p.127)
これが肝の概念。
こうした人類学的なスケールで見ると、利己的な行動を「合理的行動」と称して肯定し、独占欲に「財産権」という名前をつけて中核に置く資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれない。ハイエクもシュンペーターも、資本主義が崩壊するとすれば、その原因はこうした倫理的な弱さだと考えていた。情報を共有するインターネットの原則が資本主義にまさるのは、感情的に自然だという点だろう。(p.167)
このアメリカ発の株の大暴落のタイミングで読むと、重い。
エリック・シュミットが言うように、ビジネスの世界では「インターネットが負ける方に賭けるな」というのが鉄則だ。したがって法制度がインターネットにあわせなければならないのであって、その逆ではない。(p.174)
現実的にはそうなんだけど、それで本当によいのか?というのは、みんな悩んでいるところ。まだまだ、ネットの世界は慣習法という訳にも行かない。なので、適切な淘汰が自然に行われるような仕組みが、それこそ「自生的秩序」として育っていかなければいけない。と言うことなんだろうけど、この辺の書き方はちょっとばっさりしすぎという気はする。
インターネットのルールはRFC(request for comment)と呼ばれる。最終的な決定が「コメントしてください」という名前で出されるのだ。RFCには、ルールは常に未完成で、多くの人々に修正されて発展するという、ハイエクが『法と立法と自由』で主張した慣習法に似た発想がある。(p.173)
それで本当に改善されていくのだろうか?性善説に立つしかないのだが、それだと結局いつまでも問題は解決しないのかもしれない。
財産権は国家権力が恣意的に財産を奪うことを防ぎ、個人の行動の自由を守るための自由権の一種だが、著作権は他人が自分の著作を利用して新しい表現を行う自由を侵害する権利である。だから表現の自由を保障した近代憲法に反するばかりでなく、知識の利用や発展を妨げることによって、結果的には社会全体の利益も損なうおそれが強い。(p.175)
法律としてはそういうことなのだろうけれど、「他人が自分の著作を利用して不当な利益を得ることを防ぐ権利」はどうなるんだ?
ところが新古典派理論では、広告の存在も説明できない。消費者はすべての財についての情報を持っていることが想定されるから、広告は社会的な浪費になるのである。『良いものを作れば売れる』というのは、こうした市場の情報伝達メカニズムとしての機能を知らない製造業の発想である。(p.180)
経済学って、何なんでしょうねえ。不毛な学問の経済学と単なる実務専門学校のビジネススクールのギャップってすごいんだろうな。
IT産業で人々が購入するのは必需品ではないので、彼らが何を求めているのかは予測できない。創造的なビジネスにおいては、マーケティング・リサーチで市場をいくら分析しても答えは出ないのだ。・・・作る側が仮説を立てて実験し、失敗したらやめるしかない。(p.182)
この失敗したらやめる、と言うのが大変で、それができないとこれは回らない。そこが日本の問題点。