「アキレスと亀」 監督 北野 武

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 普通に撮っても、やっぱり武はおもしろい。
 面白いところ、その1。出てくる人が、バンバン、面白いように死ぬ、というと、穏やかではないが、あっけない、というか、はい、一丁上がり、次、はい、一丁上がり、とぽんぽん死ぬ。まるで、腕の良い寿司職人が握りを並べるみたいに、ほいほいほいほい、死体の山が積みあがっていく。感傷がない、というには、美学的なこだわりもへったくれも無さ過ぎで、もう、ばたばた、やたらと出てくる人、出てくる人、次から次へと死んでいく。そこの思い切りというか、こういうあっけないものだ、という割り切り方みたいなものがすごい。
 いつものことではあるけれど、映画なんてそんなものだ、人間なんてそんなものだ、それが諦念とか、そういう枯れた方向に行かないで、そういうもんだよ、はいはいはい、と続いていくという感覚。虚無だなんて観念をもてあそぶには、今の人間は忙しすぎるはずだ、というところのリアリティ。なぜ、死なないのか?しょうがないじゃねえか、生きているんだから。それが、彼の映画の魅力だと思う。
 面白いところ、その2。今回は、これまでの何作かめちゃくちゃにやった反動で普通に撮るということだったけど、その普通に撮るというのが、やたらうまい。普通すぎて、次が読めない。親戚に預けられるところの、母親に手を引かれて、画面の右に一度消えて、ここでこのショット終わりかと思ったら、また、右から出てきて、段々に土手を降りていくところとか、すごく映画的にうまい。それから、母親の横からのバストショットで、すぽっと、母親が突然画面の下に消える、崖のロングショット、これで、母親が自殺しちゃうとこは御仕舞。この辺、観客と画面の呼吸で駆け引きしているんだけど、一々うまい。手抜きがない。実は、これは良い意味でアマチュア的、というか、御勉強とか、映画はこう撮るものみたいなメソッドで撮っていないということなんだろうな。そこがやはり面白い。要するに天才。あの下手くそな絵も、子供の頃の絵が画廊に掛かってたり、喫茶店にかかってたり、そこら辺もやっぱりうまい。
 うまい、っていうのは、台詞で説明せず、画で見せるってことで、それが何でおもしろいかって言うと、観客が自分で直接感じ取らなきゃいけない、つまり、映画の中の人物と同じ経験をすることができるからなんだよな。まあ、そういう種類の手の込んだうまさもあるんだけど、母親が子供を預けて土手をまた上がっていくところとか、死ぬほどうまい。あれはなぜうまい?と言われても、私は説明できない。あの坂が緩やかで、ロングで撮っているんで焦点が全面にあっているから、あの土手の先が何もないのがいいとか、何言っても仕方ない。良いものは良い。こういうことできるのは、もう、後は澤井信一郎だけだろうな。
 今回は、少年時代のセットや美術・衣装なんかも力入っていた。あのバスなんか良く見つけてきたな。学校もそうだ。それに、あの子供も絵書きっていう感じで良い。口数少なくて、危なそうな感じで、ああ、絵書きっぽいなあ、と思わされる。
 面白いところ、その3。やっぱり、自分で演じてるところ。監督と俳優両方自分でやっちゃうと言うのは、もはや、武とクリント・イーストウッドくらいのもんだ。イーストウッドも最近は主演しないことも多い。あと、ゴダールか(笑)。ここはもっと論じられても良い点だと思う。俳優が主演と監督をするというのは、チャップリンキートンなどのサイレント映画以来途絶えてしまったやり方なのだ。この点はフランスなんかじゃ、どう評価されてるのかな?そもそも、コメディアンとしてのたけしなんてほとんど知らないわけだろうし。
 中年の第3部でたけしが演じ始めると、急に口数増えるし、キャラも変わってギャグ多くなる。ここは、他の俳優に演じさせても良かったんだろうけど、自分でやってそこまでの典型的な芸術家像をぶちこわしたかったんだろうな。他の俳優に真面目に演じさせると、しゃれにならないし、どうしたってこういう芸術家の話なら、世界的映画監督北野武とみんな重ねてみてしまう訳で、そこは自分で引き受けてやりたかったのだろう。たけしらしいよな。
 結局、この映画で言いたかったことというのは、「駄目な奴は駄目なんだよ、でも、仕方ないだろう?」ということなのかな。最後で嫁さんが迎えに来てくれるとこは、そりゃないだろう、あそこまでやっといて、と思うけど、そうでもしないと救いがなくていけない、と言いながら、そうしたかった、ということなんだろうな。