「セーラー服と機関銃」、「ションベン・ライダー」監督:相米慎二

セーラー服と機関銃(1981、112分)
監督: 相米慎二
プロデューサー: 伊地智啓
原作: 赤川次郎
脚本: 田中陽造
撮影: 仙元誠三
音楽: 星勝
薬師丸ひろ子 星泉
渡瀬恒彦 佐久間真
風祭ゆき マユミ
柳沢慎吾 泉の同級生・智生
柄本明 黒木刑事
円広志 尾田医師
角川春樹 風鈴屋台の親父
三國連太郎 三大寺一(太っちょ)

ションベン・ライダー(1983、118分)
監督: 相米慎二
プロデューサー: 伊地智啓
原案: レナード・シュレイダー
脚本: 西岡琢也,
チエコ・シュレイダー
撮影: 田村正毅、伊藤昭裕
音楽: 星勝
藤竜也 厳兵
河合美智子 ブルース
永瀬正敏 ジョジョ
坂上忍 辞書
鈴木吉和 デブナガ
原日出子 アラレ
桑名将大 山
財津一郎 島町
伊武雅刀 田中巡査
倍賞美津子 郁子
前田武彦 デブナガの父親
ケーシー高峰 金貸しの中年男

 改装されてから始めて行ったかな、早稲田松竹。今や貴重な名画座。貴重な資料をコピーでも張って熱心なファンの鑑賞の参考にしようと言うその手間が嬉しい。秋本哲次の文章なんか張ってあって、ついつい煙草吸いながら休憩時間に読みふけってしまった。
 実は、相米慎二の映画って、あんまりちゃんと見てなくて、「光る女」くらいからし相米慎二の映画として見ていない。「台風クラブ」とか「魚影の群れ」なんかはテレビでは見ていたと思う。でも、いわゆる相米ガキ映画というのは、学生の映画研究会が撮る映画をプロが撮ってしまったみたいなところがあって、そこの青さがどうにも恥ずかしいものに思えて、敬遠していたのだと思う。それを恥ずかしいと思うのは、それはこちらも青かったと言うことだ。
 こうして2本見てみると、工夫のないショットが一つもないのに驚く。一つ一つのショットに全力でありったけの知恵と工夫とエネルギーを注ぎ込んでいることに驚く。青さと書いたが、それは一つ一つのショットが技術的に未熟だなどという意味ではない。力を抜くことが出来ない。最初から最後まで常に全力疾走し続けようとすること、それ以外のやり方を知らないこと、そして、それを本当にやってしまうこと。それが青臭さなのだと思う。私が彼の映画を真剣に見始めたときは、ちょうど彼がその青臭さと決別しようともがいていた時期なのだと思う。
 そういう意味では、この前、「TOKYO!」見ながら、レオス・カラックスは「汚れた血」や「ポンヌフの恋人達」で何故あそこまで執拗に厳しさを女優に求めたのだろう、と思ったけれど、それは相米慎二のアイドルを配した映画群と比較して論じてみたら面白いのかも知れない。ぶっちゃけ、暗い映画青年の美少女に対する屈折した支配欲、といってしまえば、それっきりで何も残らないのかも知れないけれど、それでもさらにその背後にあるものを論じることには何某かの意味があるのではないだろうか。
 「セーラー服と機関銃」でも、薬師丸ひろこがクレーンにぶら下げられてセメントに何度も突っ込まれるところとか、まるでたけし軍団か?という感じだし、暴走族とバイクに乗るところなんか、そう思ってみると、「汚れた血」のジュリー・デルビーを思い出してしまう。実は、多少めそめそしても、こう言うのは精神的に女の子の方が強い。腹を括るときは、潔く括る。その辺を見極めつつ、しっかりと心理的に女優を支配下に治めようと言う政治的な力関係の手捌き。エグイ男の手管。
 薬師丸ひろこって、学校の先生みたいな清純派というイメージで、ちょっと見には東南アジアのボーイッシュな女の子、という感じで、一度もファンだったことはないのだけれど、あの声はすごいなあ、と思う。澄んだ芯の通った明瞭な発声は、戦後一番ではないだろうか。戦前の歌手が映画の中で歌っているのを見て驚くのは、言葉を明瞭に伝えようとしていることだ。ああいう種類の歌い方、まあ、垢抜けない学校唱歌といえばそれまでなのだけど、それも薬師丸ひろこらしい。「玉を転がすような声」というのは、ああいう声なのだと思う。