彼が夢の中で撮っていた映画を見る術はない

ETV特集マキノ雅弘 ある活動屋の生涯」
後10:00〜11:29

マキノ雅弘生誕100年を迎えた今年、東京のフィルムセンターでは100本を超えるマキノ雅弘作品の上映が行われ注目を集めた。そもそも日本映画の百年は、マキノ・ファミリーの百年といえる。大衆とキャッチボールをしながら、数々の名作、ヒット作を世に送り、映画草創期、戦中、戦後、激動の時代を生き抜いた、マキノ一家、三代。「日本映画の父」といわれたのが偉大なゴッドファーザーマキノ省三。その才能を受け継いだのが長男で、天才監督と言われるマキノ雅弘。そして、弟のマキノ光雄。プロデューサーとして満州映画協会の残党を集め東映を設立。兄と切磋琢磨しながら、戦後の映画黄金時代の立役者となった。マキノ一家の歩みは、そのまま日本映画史となる。借金との格闘、大スターとの泣き笑い。戦争や検閲をめぐる悪戦苦闘、波乱万丈の「映画渡世」をたどれば、教科書風の映画史からはうかがい知れぬ人間ドラマが繰り広げられていく。

 こんな番組があるとはつゆ知らず、録音もしていなかった。半分くらいの所で気がついて慌てて見る。最後の91年の湯布院映画祭の「日本映画を見て下さい、それが実現するまでは死ねません、それが実現したら冥途に報告に行きます」という痛切な訴えに改めて心を打たれる。生涯に261本もの劇場映画を監督しながら1972年の『関東緋桜一家』以降映画を撮ることなく1993年に死去したことも、今となっては痛々しい。しかし、撮影所システム崩壊後、彼が彼らしい映画を撮ることは出来ただろうか。撮れなかったのか、撮らなかったのか、と言えば、プロフェッショナルとして彼は撮ることができなかったと言うことなのだと思う。そして、闘病の床でも「おやじ、おやじ」と寝言を言い「アクション、カット」と夢の中でも映画を撮っていたこと。もはや、我々には彼が夢の中で撮っていた映画を見る術はない。
 彼が生まれてから100年が経ってしまったのだ。
マキノ雅弘 - Wikipedia