アキハバラ・テロリズム(2)

 第三に、今回の犯行が秋葉原で行われたことだ。、狙うなら他の場所は舞台に考えられないという感じではなかったのか。犯人にして見ると、殺すのは誰でも良かったけれど、場所は秋葉原でなければならなかったのではないだろうか。
 居合わせた人たちが、事件直後にPCを用いてストリーミング映像などを次々にアップしたという話を聞くと、見事に犯人に踊らされていると思う。ブログやSNSでその場に居合わせた人の声もあちこちに書かれているし、その後のマスコミの対応など含めて、そうした一般の目に触れる言論や報道の姿勢に様々な批判が出ている。血の海を目の前にして携帯で写真をとり続けた人たち。花を事故現場に供える人を撮り続けたマスコミ。目の前で死にそうな人がいるのだから助けろよとも思うし、マスコミだからって何でも撮影して良いわけではないとも思う。でも、突然のパニック状態で訳が分からなくなったときに、何ができるかといえば、とにかく記録することしかないような気もする。倫理的には論外だが、気持ちは妙に分かるような気もしないでもない。
 いずれにせよ、これだけ個人の情報発信能力が高くなると、旧来のメディアの報道=プロによる独占的な報道というのが、成り立たなくなってきている。そうした状況が、今回の事件では場所が秋葉原ということで一層如実に見えた。
 第四に、オタクの犯行という犯人像だ。多分、マスコミは犯行直後から、この点に関してはある程度人物像を予想して調べたり記事を書いたりしたのではないだろうか。
 こうした安直なレッテル張りは、まるでオタクだから犯罪を起こした、と言わんばかりだが、さすがにそれは原因と結果がごっちゃになっている。むしろ、そういう人間が慰めと息抜きを求められるのが、そういう世界しかなかったということだろう。マスコミ的にはおいしいと思ってやっているのだろうけれど。
 これが欧州だと不満のはけ口として、極右政党というのがある。不満のはけ口として、国外や外国人に目を向けさせるということだ。それが日本ではネット右翼みたいな反中・反韓に結びついている。いつの時代でもどこの場所でも、人間の考えることは同じだが、同じやり方で行われることはない。