鯨を食う日本人が犬を食う韓国人について思うこと

韓国、犬を正式に「食用家畜」として分類へ
 韓国は犬肉大好きなようなので、別に驚かないけど、これまでどういう犬を食べてたんだろうか。野良犬をつかまえて食べていたんだろうか。犬を食べること云々よりも、そのあたりの衛生面の方がよっぽど怖い。家畜として見ると、牛や豚ほど肉がつく訳でもなさそうだし、育てる手間を考えると効率悪そうだ。最初から食用に育てられている犬というのも、ちゃんといるのだろうけれど。
 それでも、一応嫌な感じはするから不思議なものだ。犬はかわいいから食べてはいけない、というのが、感情論の根底だと思う。その嫌な感じを考えると、欧米が日本人が鯨を食べることを避難する気持ちというのも分からないではない。鯨は知能の高い動物だから食べてはいけない。でも、じゃあ、鯨の気持ちが分かるのか?鯨とお話したことあるのか?なぜ、馬鹿な動物なら食べてもいいのか?
 それは、鯨が心を持っていると思うかどうかだと思う。心を持っているものを殺すのは怖い。ただの物質を壊すのとは違うように思える。
 心はどこにあるのか分からない。一応、脳の中にあるかのような気はするが、脳のここが心です、といえるものでもない。生命の活動が停止すれば、心はどこに行ってしまうのか。心も消えてしまうのだろうが、もともと形のなかったものがなくなってしまうというのはどういうことなのだろうか。心は脳の中の物質の化学反応によって生じる現象だ、と言えばもっともらしいが、それは個体レベルの生命活動を物質レベルの生命活動に言葉を置き換えただけで、何も本質的な答にはなっていないように思える。
 あるのかないのか分からないようなものが消えてしまうのは、怖い。なぜなら、そう言っている自分自身も、そのあるのかないのか分からないようなものだからだ。いつか、自分自身もこうして消えてしまうのだ。そのことに向き合わされるから、心のあるものを殺すのは怖い。
 そして、さらに怖いのは、そのちょっと前まで心を持っていた何かを食べているのだ、と考えることだ。殺すだけなら、それは他者を物質に還元するということだとも言えるだろう。心を物質からはぎとるのが殺すという行為だ。
 その心をはぎとった物質を食べるということは、ほかの心から肉体を奪い取り自分のものにするということだ。殺すというのは、心と肉体を分離するだけだとも考えられるが、殺して食べるというのは、自分の生存のために他の心から肉体を奪うということだ。
 突き詰めると答はないような問題だと思うが、この話は、詰まるところは「人は人を食べても良いのか?だめなら、なぜいけないのか?」という問いに行き着くのだと思う。