旅と俳句

 荷物片付けたり、買い物したり、おせちに煮物作ったり、ボケっとしているうちに年があけた。あんまり時間がたたないうちにと思い、写真を整理して、アップして見た。

 今回は、この前買ってまだ使っていなかった富士写真フィルムのF50を持っていった。画素数を増やして一千万画素にした結果、前の世代より感度がいまいちで電池の持ちもそれほどではない、とあんまり評判良くなかったけど、F10からの乗り換えなので、ユーザーインターフェイスなどの使い勝手も継続性があるし、まあ、普通に満足。水族館なんかのシーンでは、それでも感度は高く、目で見ても良く見えないところも写真を見るとちゃんと写っていたりして、技術の進歩を実感した。今のデジモノは、2年くらい経ったら買い替えた方がいいんだなあ。まあ、パソコンみたいなとこまで成熟度が来れば、3,4年使えそうだけど。メモリーは2GBだったけど、12MBで撮っていたら一杯になりそうだったので、最後は6MB、3MBとピクセル数を下げて撮っていた。
 とは言っても、アップロードした写真は軽くするために、320×240でweb用で圧縮してるし、殆どプリントもしないから、画素数上げて撮っても意味ないんだよな。ただ、コンパクトタイブではズームとか画角とか自由にできないので、構図的には限界あるなあ、と思うようになった。やっぱり、旅行のときは一眼欲しくなるなあ。
 その場で書いたものにはあんまり手を加えたくないので、写真をつけただけだけ。後で、旅行のことはまとめて書こうかと思う。その作業をしながら思ったのだけど、良くある旅行記の類って、後から随分手を入れているんだろうなあ、ということ。文章としては当然そうするべきだけど、それはその場の雰囲気をそのまま保存する、というよりは、再構成することになるのだと思う。再構成されたものの方が生のものよりも伝えたいことをより良く伝えられるのは確かだが、それはその場のドキュメンタリーから外れてくる。その意味では、写真というのはやはりすごいと思う。もちろん、写真にだって、主観や画像処理などの後からの加工はあるにしても。ただ、その場で思ったことや考えたことを写す写真なんて、そうそう取れるものではない。
 そう考えると、長い文章ではなく、俳句とか短歌というのは、その場で作るにはいい形式なのかもしれない。もちろん、奥の細道やらなんやらは、当然、後から苦吟しているだろう。でも、その場で言った「うわー、すげー」と、後から書いた「うわー、すげー」は違うような気がする。そう考えると、今の携帯とかモバイルの文化というのは、俳句とか短歌みたいな短い形式と親和性が高いのかもしれない。経験をその場で言葉にして記録するためのモバイルなメディア/文学。俳句とか短歌を詠んでアップしながら旅行するというのも楽しいかもしれない。とは言っても、それなりに習練しないと、575にできないかなあ。なんでも575にするというのも、駄洒落連発のおやじギャグみたいではあるが。はてなハイクなんかもそうだけど、こういうリアルタイム性のあるコミュニケーションのおもしろさや将来性って、ユーザーの使いこなし含めて、まだまだこれからというところだと思うけれど、これってお役所関係でユビキタスとか言っている方々にはどこまで見えているんだろうか。老人介護とか見守りサービスみたいなものもそれはそれで必要だけれど、そういう絶対必要な(んだろうか?説明が簡単なだけかもしれない)「いつでもどこでも」だけでなく、別になくても困らないけれど嵌ると抜けられない「いつでもどこでも」というのも考えなければいけないことかなと思う。