「ヘンリー・ダーガー 少女たちの戦いの物語−夢の楽園」@原美術館


 職場から歩いていける距離なので、8時まで開館している水曜日を狙って行ってきた。原美術館は、確かこれまでにも2回は行っている。品川駅から山手通りを歩き、三菱グループのクラブハウスみたいな所の隣の交番の前で左に曲がると、超御屋敷街になる。こんな都心の超一等地にこういう邸宅を構える人ってどういう人なんだろうな。表札を見ると、外人さんだったりする。何だか、違う世界に足を踏み入れたみたいで、落ち着かなくてどきどきする。シーンと静かで、さっきまでの通りの喧噪が嘘のようだ。いつも気にもとめず通り過ぎていた曲がり角をふと曲がってみると、突然違う世界が広がっている。日も暮れて7時近くなり、すっかり夜なので、道も薄暗い。この都心のど真ん中で、こんなに薄暗くて良いというのが、何とも言えず御屋敷街である。道を行く人は殆ど見あたらないのに、時々車だけが通りすぎる。この御屋敷街の中をしばらく歩くと、控えめなランプで照らされた表札とポスターで、あ、ここだったと気づき、何だかほっとする。
 今回の展示では、チラシによると『拷問や殺戮といった残酷な情景も数多く描いたダーガーですが、本展は少女たちが無邪気に遊ぶ楽園のイメージを中心に構成します。』との事。彼の作品を偏見抜きに評価するには正しい方針だと思う。その評価の上で彼の作品の全容を紹介していくというのが、彼について偏見のない正当な評価を確立するためには必要なプロセスかもしれない。
 貧しい労働者として一生を送り、カトリック系の教会の施設で一生を終えたという彼の作品に、今では2000万円の値が付いたりすると聞くと、何だか切ないというか、やりきれないというか、伝説と死者って金になるんだなというか、それでも彼の残した作品を保護するためにはそれも大切であったりするのかな、というか、なんというか。それが「アート」で、『日経アート』の市場であったりするんだろうな。昔、安田財閥の御嬢様であるところの小野洋子が「ジョンなんて、ポールと出会わなかったら、良い詩をいくつか書いたかもしれないけど、誰にも読まれず、ただの飲んだくれで一生終わったような人だと思う」みたいなことを言っていたのを思い出す。誰に見せるためでもなく、こうした作品を1万5千ページの物語の挿絵として書き続けたのが、こうして日本で展覧会として展示されているということ自体が不思議なことだ。こう言うのを奇蹟とか事件と言うんだろうな。
 まず、彼の晩年のポートレート写真にどきっとした。まるで、犬のように純粋な目なのだ。
 会場に入ってすぐの大作がすごい。戦闘のシーンのようだが、横2mくらいにわたって、厚塗のコラージュが繰り広げられているのだが、密度と質感が強烈で、彼の衝動や情念がそのまま固まってしまったかのようだ。
 彼の作品の少女は、拾ってきた新聞の漫画などをなぞったものなので、典型的なアメリカのイメージが埋め込まれている。また、彼の気に入った絵が繰り返し使われているので、コラージュ的でもある。彼の物語の絵なので、その場面を描くために横長のサイズで多くの人物がパノラマのように描かれている。
 主題論的な分析というのも色々できるのだろうけど、この大量の作品と一枚一枚の絵に詰め込まれた大勢の人やものなどの量にまず圧倒される。自分の世界を構築しようというパラノイア的な意志だ。まるで、自分を取り巻き押しつぶそうとする現実世界に抗うために、自分の想像の世界に想像力を吹き込み続けたかのようだ。彼が書くことをやめれば、この世界は崩れ落ちてしまう。それは、自分が崩れ落ちてしまうということだ。なかば、そんな恐怖にまでとらわれていたのではないだろうか。彼の作り上げた非現実の王国は彼を必要としてくれていた。彼はこの非現実の王国を必要としていた。
 大家の回想として書かれていたけれど、夜中に彼が声色を変えて一人芝居をしているのが時々聞こえてきたそうだ。それは、彼が働く教会のシスターが彼をしかり、彼がそれに反抗するというような内容だったという。
 もし人生が耐え難いものであったとしても、人生が生きるに値しないものだと思えるとしても、それでも、非現実の世界を想像する自由が人間にはある。彼の一生は耐え難い苦痛であったかもしれないが、それでも、この世界で想像の翼を広げることが彼には許されていた。それが、例え、どんな世界であったとしても。
 正直言って、この彼の絵をどのように見ればいいのか、私には分からない。そもそも、彼の絵も人に見せることを目的として書かれた訳ではない。その意味では、こうして彼の絵を見ること自体、何か後ろめたい気がするのも事実である。その後ろめたさとは、まったく無関係に彼の非現実の想像の王国は、確とした存在として我々に残された。

美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で