科学と浪漫(2)

My Life Between Silicon Valley and Japan
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u127.html
 グーグルの野望って、情報の世界征服だから、まあ無邪気ではあるけれど、すごい浪漫があるのは間違いない。この浪漫って、誇大妄想的な浪漫で、野心家の浪漫なんだよね。それに対して、茂木氏が矛先を向けている科学者のロマンチックって、何かというと「この世界を成り立たせている神の真理を美しい1本の数式で書き留めて見せたい、自分の力で理解したい」と言うことだと思う。そのロマンチズムの前提にあるのは、「この世界はどんなに複雑に見えても、それは見せかけであり、神が設定した単純な真実が背後に控えているべきだ。それは一本の数式であり、単純な法則でなければならない。それを我々は必ず発見出来るはずだ。」ということだ。科学とかサイエンスの世界知らない人(文系だけじゃなくて、がちがちの工学系とか大半のプログラマーも含むんだろうな)には理解出来ないかもしれないけど、これはサイエンスをやっている人たちの基本信仰なんだよね。信仰というのは、どういう事かというと、これを否定されたら死ぬということ。文字通り。文系の人なんかは、「そんな馬鹿な。そんなに世の中単純な訳ないじゃん。アホか?だから理系って、子供で、アホなんだよな。」と思うだろうな。多分、それは正しい。でも、評論家なんだよな。信仰なければ、サイエンスなんてやってられる訳ないんだよね。世界の真理なんて言ったって、結局研究室で何やっているかって、分子生物学者が芋虫一生懸命育てたりするんだから。その育て方が上手いか下手かで成果は決まっちゃったりするんだから。カミオカンデとか、加速器で研究やっている実験素粒子物理学者たちが、日々何に頭を悩ませているかというと、加速器建設の土木建設費の見積もりだったりするんだから。多少なりとも信仰なければ、馬鹿馬鹿しくてやってられないと思うよ。
 でも、そんなに綺麗に全てが単純なパースペクティブに収まるわけないじゃないか?ということが、もう1980年以降見えてしまった。それが80年代の「ニュー・サイエンス」だった(こういう名前って、絶対古びるからもう誰も付けないけど)。素粒子理論は果てしなく新しい素粒子を実験的証明も出来ぬままに提示し続けるし、ゲノムは解読出来たけど何でこんな事になっているのかさっぱり分からない。広中平祐フィールズ賞を取った証明も電話帳くらいの厚さがあって、これをフォローアップした人が世界で何人いたか。もう、ロマンチックな科学観なんておいそれと持てない時代になった、と言うことくらい自明の問題意識だ、と思っていたんだけど、それを今さら茂木氏がぶったと言うことが驚きだった訳ですよ。
 大体、コンピューター・サイエンスなんて、サイエンスなんて言えるようなもんじゃないだろう、と思う。サイエンスって言うのは、そういうセントラル・ドグマありきの宗教の世界だから。サイエンスだというなら、「物質とは何か?」「生命とは何か?」「空間とは何か?」「宇宙とは何か?」という目眩のするような命題を抱えていなければいけない(だから宗教、それもいろいろ問題あるが)。力ずくの泥臭いことやって、理屈はともかく結果を出すのがコンピューターでしょ。人間より馬鹿だけど、根気と正確なことにかけては人間の左に出ることは決してない愚鈍な代物なんだから。そういうことやっている人たちに、何で茂木氏がわざわざグーグルの力業というのを強調しなければいけないのか。そこが、もうコンピュータ・サイエンスの門外漢にしてみれば、理解不能。コンピュータ・サイエンスやっている奴らって、そんなにサイエンスを知らないのか、そんなことわざわざ言ってやらなければいけないほど意識が遅れているのか?そこまでアホなのか?この話聞いて、それがショックだった。それでも言わなければいけないんです、というのも説得力あるが、それ、おいしいよね。今や、NHKにオフィスがあると言われる人だからなぁ。
 で、それをまるで新しいことであるかのように、感動的に紹介してみせる梅田氏のスタンスも、なんだかな〜、コンサル的には上手いな〜、おいしいな〜、と言う気がして、そこどれだけ分かって言ってんのかな、分かってなければ素人だな〜、分かっているならおいしすぎるな〜、どっちにしてもなんだかなあ〜、と思った。