「情報の洪水」の裏で進行する「思考の干魃」

リンクベイティングによる被リンク構築 | SEO検索エンジン最適化
を読んで素直にこういうタイトルを付けてみた(笑)。
http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/miyanaga/10/02.shtml
How Much Information?
 人類が30万年かかって蓄積した情報量(12EB)よりも多くの情報が次の3年間で蓄積される、のだそうだ。”E(エクサ)とは10の18乗のことであり、1EBは10億GB(ギガバイト)”なんだそうだ。これが意味することは、何だろうか?当たり前だが、この3年間で人類は30万年分の思考を行ったと言うことではない。これまでの30万年分の蓄積に相当する情報の記録を行ったということなのだ。ますます人類はゴミのような情報を生産するようになったということなのだ(例えば、このブログもそうだ)。
 つまり、人類は考える代わりに記録をするようになった。とまで言ってしまえば、言い過ぎだが、考えるために記録をする、という名目で、考えていないことを隠蔽して考えたフリをして体裁を整えるために記録を行うようになった、というなら、それほど言いすぎでもないだろう。それに、電子化・アーカイブ化ということもあるのかもしれない。
 勿論、情報量が増えることで、思考は加速される。ネットワーク化で様々な情報に接することが多くなれば、考える以前に結論にたどり着いてしまうことも多くなるだろう。では、考えることと、答を探すことの間にはどれだけの違いがあるのだろうか。勿論、答を探すという場合でも、これが答だと判断する能力は必要なのだし、検索一つするのにも何がキーワードか?という本質を掴む能力というのは不可欠である。それは往々にして考える能力に見合ったものだろう。大体、考えるといったって、そういうレベルのことしか普通の人間は考える必要がない。インターネットで調べれば済むから馬鹿になった、というのは、調べれば済むようなことしか考えないから頭を使う必要が亡くなった訳で、それは元から馬鹿だったという可能性だってある訳だ。これは、電卓を使うと計算能力が落ちる、とか、新しい道具に対していつも繰り返される議論だ。
 それでも、実感としては、ものを考えなくて済むようになっているのではないか?という気がしてならない。というのは、インターネットで光ファイバーで、情報が光のスピードで地球中を飛び交っても、生理的な時間は相変わらず1日24時間だからだ。その可処分時間でボケッと何かを考える時間は減っているのではないか、という実感がある。後で考えよう、後で読もう、そういう心理的な安心感のために記録が行われ、思考が停止しているのではないか。漠然とした個人的な実感で、実証できるような方法もないのだけれど。馬鹿になった、というよりも、馬鹿なことを考える前にどこかで同じような馬鹿なことを見て、考えるのを止めてしまう、考えるという行為の敷居が高くなったということなのかもしれない。
 というのは、大体「ウェブ進化論」の話の枠内だし、こんなものわざわざ書く必要ないんだよな。