「硫黄島からの手紙」:監督 クリント・イーストウッド

"父親たちの星条旗&硫黄島からの手紙 公式HP"

141分、アメリカ、ワーナー、2006/12/09公開
監督:クリント・イーストウッド
製作:クリント・イーストウッドスティーヴン・スピルバーグロバート・ロレンツ
製作総指揮:ポール・ハギス
原作:栗林忠道 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫刊)、吉田津由子 (編)
原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス
脚本:アイリス・ヤマシタ
撮影:トム・スターン
美術:ヘンリー・バムステッド、ジェームズ・J・ムラカミ
衣装デザイン:デボラ・ホッパー
編集:ジョエル・コックス、ゲイリー・D・ローチ
音楽:クリント・イーストウッド
出演:渡辺謙 栗林忠道中将、二宮和也 西郷、伊原剛志 バロン西(西竹一中佐)、加瀬亮 清水、松崎悠希 野崎、中村獅童 伊藤中尉、裕木奈江 花子

 昨日、柳町監督は、「父親たちの星条旗」の方が良かったと言っていたので、若干萎え気味だったのだが、ぐずぐずしていて「西鶴一代女」に間に合わなかったので、予定を変更して見てきた。昨日の今日なので、イーストウッドのどこが溝口的なんだろうなあ、とも考えたけど、動きのないシーンでも微妙なカメラの寄りや引きで何らかの運動を与えて、一瞬たりともだれた場面を作らない職人的な完全さというところでは、そういう相通じる呼吸みたいなものがあるのかもしれないなあ、と思った。大体、これで今年絶対見たいという映画は見たので、後は気分次第。
 「父親たちの星条旗」とは大分雰囲気が違う。「父親たちの星条旗」は、戦争に勝者はあっても、戦場には勝者などありはしない、という厭戦感漂う重い悲惨な話だったが、日本側から描いたこの映画はまた別の意味で辛い悲しい話になっている。敗軍をこういう風に描いた映画というのは、これまで無かったかもしれない。それは、硫黄島に於ける栗林忠道中将という軍人の特殊性も一つの理由だろう。また、アメリカ人が日本人を理解しようとして撮った映画だというのも別のもう一つの理由だと思う。
 いずれにせよ、全体をセピア色がかった薄い青色で統一したこの映画で、イーストウッドがまず心を砕いたのは、如何に敗軍へ敬意を払い、彼らを人間として描くかと言うことだと思う。この点については非常に神経を配っていて、負傷して日本軍の捕虜になった米軍の兵士を西中佐は懐抱するのに、投降した日本軍の兵士を米軍側は「やっかいだから」くらいの理由で射殺してしまう。こんな対照的な描写をアメリカ人が行ったのは見たことがない。ただ、実際にはどちらもあったのだと思う。実際には、どちらの国の側にも、理不尽な行為も崇高な行為もあっただろう。しかし、この映画であえてこうした対比を行ってみせるのは、やはり、「ステレオタイプのイメージとは実際の戦場は違う」と言いたかったのだと思う。こうした描写に対してアメリカ人はどういう反応を示しているのだろうか。
 また、面白いことに「父親たちの星条旗」と同じカットが色々使われている。塹壕の中からアメリカ兵を機関銃で狙って撃つカットなどは、「星条旗」では銃の背後にいる日本兵の姿は出てこない。日本兵というのは、物陰から銃を撃ってくる不気味な顔の見えない存在でしかない。「硫黄島」では、その銃の背後が語られる。そこの対照が非常に興味深い。戦闘シーン自体は「星条旗」の方がとてつもなく激しい。「硫黄島」にも激しい戦闘シーンや目を背けたくなるような生々しい残酷なシーンも沢山あるが、あれほどではなく、むしろ心理劇的な要素が強くなっている。元々は一本の映画として構想していたようだが、これは二本の映画ではあっても、やはり裏表の一つの映画なのだと思う。ただ、一つの映画ではあっても裏と表くらい違うのだ。
 戦闘シーンに関して言えば、アメリカ兵は攻める側なので、どこかから狙われている側である。日本兵は守る側なので、大体狙う側である。だから、「星条旗」の戦闘シーンの方が怖さを感じるのは当たり前である。逆に、日本側の「硫黄島」では、追いつめられていく息苦しさと恐怖という心理的な要素が重くなる。というのは、当然なので、どちらが良くできているといえるようなものではない。
 この映画で重要な役割の日本人は三人いて、渡辺謙の栗林中将、二宮和也の西郷、伊原剛志の西中佐なのだが、このうち、栗林中将は駐米武官の経験があり、西中佐はロサンゼルス・オリンピックの乗馬の金メダリストである。従って、彼らの目を通して描くというのは、アメリカ人にとっては理解しやすいフィルターであったのかもしれない。
 それでも、一人ずつ手榴弾で自決していくシーンというのは、日本人以上にアメリカ人にとっては恐ろしく見えるのかもしれないし、理解しにくいかもしれない。こうして、この映画を見ていると、日本軍の潔き自決やバンザイ突撃というのは、恐怖や苦痛のあまりの自殺に他ならず、最後の逃避手段だったのだな、と思う。日本の美学といえば聞こえは良いが、実際は「死んだ方がマシ」「早く死んで楽になりたい」でもあった訳で、それを称える美学って何だったのだろう。これを見てると、「早く死んで楽にならせてやれよ」と思うのだが、軍人としてみれば、実は栗林中将の言っていることが一番合理的で一番厳しい。
 現実から目を背けて分析をしない、自分勝手な自己満足と感傷のために軍規や命令を無視した無駄な突撃を敢行して玉砕する、陸軍は陸軍で海軍は海軍というセクショナリズム、といった日本軍の悪習って、しっかりと今も日本の伝統として日本企業に引き継がれているよなあ、なんてつい思ってしまった。そういう悪しき愚かな日本人、というのが、実はおそらく当時の日本軍の上層部や指揮官の大半だった訳である。その意味では、栗林中将や西中佐のような合理的な人物を中心として描かれた日本軍の姿というのは、実は日本的なものではないのだろうと思う。それが、硫黄島が36日間に渡って持ちこたえた理由なのだと思う。この辺りの事情についてまで、軍内部での意見の相違として十分に理解されて描かれているのが、この映画というかクリント・イーストウッドの偉いところだと思う。人として尊敬したくなるところだ。実際は栗林中将や西中佐はアメリカ軍と知力と体力の限りを尽くして戦う一方で、日本の頑迷さと戦っていたのだと思う。そのもう一つの戦いについては、日本人が語り論じなければいけないのだと思う。
 「ミュンヘン」を撮ったスピルバーグとの共同製作で、今この映画を作ると言うことの意味は明らかだと思うが、アメリカ国内ではどういう反応がでているのだろう。イラクに対しても、アメリカは同じような敬意を今払うことができるだろうか?戦争の悲惨や愚かさをいくら説いても、過ぎ去った過去に対してだけの議論では全く意味がないのだ。我々が論じるべきは、今起こっている戦争についてであるべきだ。アメリカの反応は、後で調べてみようと思う。

「玉砕総指揮官」の絵手紙 (小学館文庫)

「玉砕総指揮官」の絵手紙 (小学館文庫)

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道

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