藤田嗣治展 東京国立近代美術館

 3日間朝日ホールに引きこもった反動で広々とした空間でボケっとしたくなり、国立近代美術館へ行く。なんだか、長時間飛行機に乗っていたのと同じような疲れがある。映画見てエコノミー症候群というのもなあ。美術館は歩きっぱなしなので、結構運動になるのだ。
 40代からの絵がやはり良い。こうして一人の画家の作品を年代別に並べると、人生の軌跡と画風の変遷が重なり合って、全体のストーリーが見えてくるのが、すごく面白い。中南米を旅行するあたりから、どんどんスタイルが変わる。鮮烈な色彩が現れたり、日本的なものが題材となり、中国、戦争画、と来て、最後にパリに帰ると乳白色の肌が復活する。
 この人、4回くらい結婚してるけど、最後は戦争への協力を責められて、パリに帰って、フランス国籍をとり、カトリックに改宗し二度と日本の地を踏むことなくスイスで没している。通常展示の方でビデオやっていたので見たけれど、なぜ70にもなってカトリックに改宗するのか?と聞かれて、「これでフランス人に近づけたような気がする。」と言っていた。その前に、すでに国籍は移していたのだが、単なる白人礼讃の人だったのだろうか?それ以上に帰国した日本での体験が深く傷跡を残したと見るべきなのだろうか。面白そうなので、少しお勉強してみようか。
 画家の戦争責任と言ってもなァ。戦争画を書いたと言ってもねえ。もっと悪いことしてた奴は一杯いるわけだし。そもそも、戦時色が濃くなるところへ日本に久しぶりに帰ってきたのも、どういう心境だったのだろうか。大体、小津安二郎が戦争責任を問われた、なんて話も聞かないしな。フィリピンだかどこだかで「市民ケーン」を見て、日本は負けると思った、なんていう人の戦争責任を問うても仕方ないんだろうけど。当時の画壇の雰囲気とか、画壇内部の政治的状況というのもあったのかもしれない。
 その戦争画も何枚かあったけど、これが又画風が一変してすごかったなあ。「アッツ島玉砕」と言う絵があって、敵も味方も泥の茶色の中で混じり合い、絶望的な混沌そのものとして描かれていて、これがすごかった。この絵を描いた人が戦意高揚を意図していたとは思えない。この絵を持って戦争に積極的に荷担した責任を問うというのは、どういうことなのだろう。
ippusai.com
 この人の言う通りじゃないのかなあ。「神兵の救出到る」なんて、まるで宗教画みたいな光の使い方だもんね。でも、ああして並べてみると、やはり、この時代の画風の変化は異様だ。突然、写実的な大絵画になってしまうのだから。この人は、やはり画家としての野心もすごかったんだろうな。それと、描きたい物を好きなように描ける技量があるからから、スタイルをころっと変えられる訳で、そこの実力が何と言ってもずば抜けているのだろう。
 所蔵作品展”近代日本の美術”として、年代順に近代日本画が展示されていたけれど、藤田嗣治を見たあとだと、やはり、がくっと来る。その時代の流行のスタイルが面白いように次から次へと並んでいるのだけれど、オリジナリティーでガツンと来る物がない。いかにも、お勉強して一生懸命描きました、という感じで、どれも細かいところまで丁寧なのだけれど。
S. Yamada
 陸軍美術協会の理事長までしてたのか。それが、戦後は責任逃れをしたということか。親が偉い軍医だったというのが、やっぱり関係しているんだろうか。みんなで勢いで戦争やっちゃったんだから、戦犯追及するなよ、というのは、やはり甘いよな。。。
 パンフレットの年譜を読むと、戦後にできた画家の新団体のトップに戦争責任一人で背負ってくれ、と詰めよられたとある。それもずいぶんな話だよな。大体、日本では、戦争中ちゃんとしたレジスタント活動なんてなかったんじゃないのかな。特高に追い回されてたのって、共産党くらいだったんじゃないのかな。まあ、理事長までいきなり引き受けちゃうのが、お調子ものと今にして思えば、見えてしまう。
藤田嗣治について
 世渡りが上手い人ではなかったのかもしれない。政治とか絵意外のことには疎い人だったんだろうか。これを読むと、又色々な事情が分かってきた。
学芸員レポート 06年4月
 そう、中南米の当たりから、がーっと色が出てきてあそこがすごいんだよな。

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

 これを読んでみることにしよう。
 
 あの面相筆の輪郭線というのがあると、何だかマンガみたいに見えることがある。それはあとの時代から見ているから感じる主客転倒の錯覚で、浮世絵とか、日本画からきているんだろうな。「乳白色の肌」というのも、墨で塗ったようなあの淡い濃淡の肉感が利いている、と思う。くっきりした境界とぼんやりした濃淡で肉感を与えられたその境界の内部、そして執拗なまでに精緻な描写で描かれた境界の外部、と言うのが、パリで寵児となった初期の絵画の特徴と言って良いだろう。この二つの異なる原理を1枚の絵に納めるためにあの輪郭線がある。
 その輪郭線はそのままに、中南米では濃淡のかわりに鮮烈な色彩が輪郭線の内部に満ちる。これが日本に帰ってくると、また日本らしい色になる。この頃には、最初のパリ時代のような細かい背景は姿を消す。
 そして、戦争画の時代。ここでは境界は余り意味をなさなくなり、画面全体を覆う単一の色調の中で、かすかな形の名残程度の物になってしまう。それがフランスへ帰ったあとでは、境界内の濃淡はまた意味の違うものになっているような気がする。まるで、鳥獣戯画(ラ・フォンテーヌが題材だけれど)のような動物たちが、絵画の中で飛び跳ねる。
 この輪郭の内と外の分類の枠外にいるかもしれないのが猫だ。猫は、初期からあの見事な毛の描写で内部まで満たされている。境界外の静物の写実的な描写ともタッチが違うし、人の肌の描写でもない。むしろ、一本一本の毛は線で、境界そのものの存在が猫なのだ。

 どう見ても戦争絵画の時代というのが、画風が違う。軍には受けが良くなかったが、一般には人気があったというのは何となく分かる。その前にも銀座コロンバンとか大衆画や壁画を多く描いていたという路線の延長線と思えばよいのだろう。

 晩年の絵とエコール・ド・パリの初期の絵を比べてどう見るか。乳白色は復活しているものの、何となく自分の刻印とサービスでやっているという感じすらする。あの宇宙人のような子供はなんだったのだろう。

リンク:
展覧会情報藤田嗣治展
藤田嗣治 - Wikipedia