一歳桜の狂い咲き



 今年は、一歳桜は4月になっても蕾を付けず、5月になってもウンともスンとも言わなかった。ウンとかスンとかしゃべったらしゃべったで腰を抜かしますが。そのうちに、2鉢ある方の一つの鉢は、花を咲かせずに葉桜になってしまった。もう、今年は花を咲かせないのか、と思っていたら、今頃になってもう一鉢の方が花をつけた。台所に置いておいたのが良くなかったんだろうか。それなりに寒い目に遭わせないといけなかったんだろうか。
 で、とにかく咲いてしまった。多分、桜も花を咲かせるには、細胞の遺伝子がスイッチオンにならなくてはいけなくて、そのスイッチは日照時間とか温度で決まっているんだろう。暖かい室内に置かれていると、そのスイッチが入らない。その場合には、花を出さずに葉っぱを出す、というプログラムが起動したのが、もう一つの鉢の方だろう。でも、隣に置かれているもう一つの鉢は、葉を出す前に花を咲かせるというプログラムのルールのループにはまり込んでいて、結局、今頃、とにかく花を咲かせろ!ということになったのだろう。
 そんな暖かいところに置いておいた自分が悪いと言えば悪いのだが、こうして狂い咲きを見ると、改めて生命の不思議さに想いが向かう。
 それで思い出したのだが、と言ってこういうことを書くのも一瞬ためらいを感じるのだが、そのためらいというのが差別なのかもしれないけど、週に1,2回、出勤の途中で身長80cm位の女性を見かける。見る度に、一瞬どきっとする。後ろ姿しか見たことはないのだが。何とも見ているだけで居心地の悪い気持ちになる。別に差別をしたいわけでもないし、何の悪意を感じる訳でもない。私も彼女も何か悪いことをしている訳でもない。でも、心の中でどきっとしただけで、何か差別をしてしまったような気がする。その気持ちが居心地が悪い。自分が無意識ではあっても、”ノーマル”という勝手で傲慢な判断基準を持っているのだ、という事実を突きつけられてしまう。彼女が何かを話しているのを聞いたこともないし、どこから来てどこへ行くどういう人なのかもわからない。私が勝手に可哀想だとか、同情だとか、そんなことを感じることすら欺瞞だし、彼女の日常なんて想像できないし、彼女が自分を不幸だと思っているのか、幸福だと思っているのか、そんなことをあれこれ私が考えていることすら彼女は知らないだろう。彼女も日々生きているのだし、毎日は毎日続く日々の中の一日だ。