「都市のドラマトゥルギー」: 吉見 俊哉

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

都市のドラマトゥルギー (河出文庫)

 読了。1987年に出版された本の文庫版。近代日本の東京の都市の変遷を、構造主義的に社会学の視点から論じた本。今でいうところのカルチュラル・スタディというには、資料ベースの近代の分析かな。都市というのは、そこにいる人が演じる演劇であって、その演劇のシナリオを動かしているダイナミズムの力学を探るのだ、というのがコンセプト。20年経ってみると、当たり前の話に思えるところも色々あるけど、それは20年前を知らない人にとっては貴重な資料にもなっていたりする訳で、きっちり書かれているものというのは無駄にはならないんだなあ、と思う。
 I章は「盛り場研究の系譜」として、先行する盛り場研究をレビューしている。要は上から目線の研究が多かったけど、そういうのはピントがぼけている。逆に、下から目線は目の付け所は良いんだけど、各論で終わって理論にならないと。II章は、「博覧会と盛り場の明治」として、日本の近代化において都市がいかに造られたか、そこで近代化のショーケースの役割を果たした博覧会がなんだったのか。この博覧会が、いまの百貨店にまでつながっていて、そう考えると、なんで所謂デパートがあんなに美術展の類をやっていたのか、始めて分かった。III章は「盛り場の一九二〇年代」として、「浅草」から「銀座」への時代の変遷を分析する。IV章は「盛り場の一九七〇年代」として、「新宿」から「渋谷」への時代の流れが語られる。
 読みながら、気になったところや、色々考えたところを引用しながら、思ったことを断片的に書いてみる。

「又、娯楽は生活の余力より発生するものである、娯楽発生の条件は生活余剰である、となす見解は寧ろ事柄の逆であって、人間は生活余剰と関係なく娯楽を追求するものであり、人間の心に本能的に娯楽欲求の生じた時が、人間の心に均衡を欣求する念の湧き出したことを證する標識である。・・・而して娯楽は生産のための再創造には非ずして、むしろ生活創造の根底であるということを知り得たのである。」(権田保之助、p.56)

 昔、「テレビなんて娯楽品だから、なくても困らないものだ」と言ったら、「冷蔵庫とテレビが同時に壊れて、どちらか一つしか買う金がなかったら、テレビを買うだろう?冷蔵庫なんてなくても、外食すればいいが、テレビがないのは耐えられないぞ?」と言われて、まあ、そんなものかな、と思った。まあ、テレビって週に1,2時間くらいしか見ないし、それも、週末昼飯作って新聞読みながらつけっぱなしにしておくという感じで、WBCとかオリンピックとかワールドカップでもないと、ほとんどちゃんと見ることないんだけど。

明治の都市空間に現れた「開化」の位相を、盛り場を成り立たせている時間−空間構造の変容の問題として捉え返すのならば、われわれはさしあたりこれを、盛り場が<異界>への窓としてあるような構造から、それが<外国>への窓としてあるような構造への移行として理解しておくことができる。(p.185)

 そのとき、不浄なものとか、死とか、猥褻なものとか、そういうものはどうなってしまうんだろう?と思うけど、銀座も煉瓦通りを作った当初は全然店が埋まらず、裏通りに回ればそういういかがわしいものが一杯あったんだそうだ、というのは、山田風太郎の小説にもあったな、そういう話。

開化の盛り場に現れる意味づけの超越的な審級としての<外国>とは、要するに<未来>のことなのだ(p.191)。

 未来って、なんかそういうイメージの中だけにあるものなのかもしれない。

・・・そうした空気こそが、天真爛漫な野次を爆発させたかと思えば、また冷徹な無言の批評をするといった、浅草の観衆の「奇智縦横、かつ犀利な批評眼」を可能にしているのだと述べている。(p.220)

 ここ読んでいて、まるで今のニコニコ動画みたいだなあ、と思った。<浅草的なるもの>の特徴として、”(1)強烈な消化能力、(2)先取り的性格、(3)変幻自在さ、(4)共同性の交換”ということをあげているのだけれど、これはほとんどそのまま今のネットに当てはまるのではないかな。そうすると、盛り場としてのネット論とか、盛り場とネットの比較というのも出来るだろうな。

<外国=未来>という審級は、線形化された時間性の彼方へと先送りされる観念としてまずあるのであって、上演の場自体の中に根拠を持っている訳ではないことだ。(p.255)

 いまここではないどこか、という点では、<未来>も<外国>も同じこと。でも、もはや外国はそういう思いを寄せる対象にはならなくなってしまっているのかもしれない。

 ただ。「銀座」における演技が、「浅草」のそれと異なるのは、後者の場合、あくまで<群れる>ことのなかから<演じる>ことが生み出されてきていたのに、前者においては<群れる>という契機を欠落させたまま、<演じる>ことがそれだけで一人歩きしている、という点である。<銀座的なるもの>の上演においては、意味の源泉が上演の場自体のうちにではなく、先送りされる<外国=未来>に置かれているために、上演の場自体のなかでの演者相互の直接的なコミュニケーションの契機を希薄にさせたまま<演じて>いくことができる。(p.263)

 これは、マスコミそのもの。銀座界隈には新聞社が集結していたけれど、それももっともなことだったのだな。

テレビからラジカセ、ビデオやウオークマンに至るここ20年余の間に急速に全般化していった一連の視聴覚メディアが、いずれも共同的な世界を個別化的に媒介していく装置として機能していった点である。(p.316)

 その究極がインターネット、ということか。