「トウキョウ・ソナタ」 監督 黒沢清


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 さっさと仕事を切り上げて、針を打ってもらって、飯食ってレイトショーで見てきました。
 小泉今日子が大学生の息子を持つ母親か・・・。それだけで、ズシンと堪えたね。特別ファンだったことなんてなかったけれど、世代的にね・・・。
 「一体どうすればやり直せるんだろう?」というセリフがあるんだけど、結局やり直せないんだよね。不可逆な変化を受け入れることしかできない。でも、子供たちの若い世代には希望がある、ということかな、要するに。
 そういう結論って、言われて見ると、ああ、そうか、そりゃそうだな、おれもそういう年だよなあ、改めてそう言われてショック受けている自分って、一体何なんだ?そう思うと、一層ショックだな。
 まあ、映画に話を逸らして、自分のことから目をそむけよう。そういう感覚というのは、何も自分だけじゃあねえぞ、と開き直ってしまえ(悪態)。こういう社会問題的な話を題材にして、最後にカタストロフィックな一夜を家族それぞれが過ごして、なんか家族がとにかく別の姿で動き出す、生き残る、って、映画としてうまくできすぎなんじゃないかな?みたいな気もする。失業の話の映画は、毎年イタリア映画祭で1本くらいは見ているような気がするけど、大人の苦い社会派っぽい映画みたいなものになると思う。まあ、そういう意図で撮れば良いというものでもないし、これはこれで十二分にそういう痛みがあるんだけど、なんとなくどうにも違和感がある。
 というのは、これが黒沢清の映画だからだろう。今回の脚本は、教授を務めている東京芸大の弟子と書いたみたいだけど、その辺がやはり新鮮な感覚を生んでいるんだろう。ただ、弟子ということは、当然、影響を受けているだろうし、当人が逆に刺激を受けている、というところもあるだろう。日本人が日本を守るために米軍に入っちゃう、なんて言うのは、彼が考えそうな話のような気もするし、そうでないような気もする。無賃乗車しようとした二男が子供でも大人扱いされて、留置所にいれられる、というのも面白いけど、こういうのもどっちが考えたのか、分からない。それは脚本が共作として成功している、ということなんだろう。大体、こういうある意味普通な彼の映画って初めて見たような気がする。
 でも、最初の新聞紙が風で飛ばされて、ほんのページがめくれて、というところは、ホラーなんだよね、手癖として(笑)。

 パンフレット見ると、日本に住んでいたことのあるオーストラリア出身の脚本家、マックス・マニックスが書いたものに手を入れて作られた脚本とのこと。最初はリストラされた父親と隠れてピアノを習う子供の話だった、というけど、それをオーストラリア人が日本を舞台に書くという時代なのか。長男が米軍に入るというのは、黒沢監督のアイディアだそうだ。リストラされて、配給所行って出会う昔の友達とか、面接で「何ができるか、ここで見せてください」とか、かなり誇張されているけれど、あれは本当にありそうな話で怖い。あり得ないけど、本当に起こりそうなブラック・ユーモアすれすれの笑って良いのか、笑えないのか、頬の筋肉が一瞬動きかけて凍り付くようなところが、この映画には何回もある。そこは多分、黒沢監督のセンスの部分なのだろう。元の脚本の視点はそのままに長男や母親の部分をふくらますことで、家族のいろいろな視点が重層的に重なって、共同脚本というのが、これは本当に良かったんじゃないだろうか。

 それから、なんといっても小泉今日子良かったな。「あたしがいなくなったら、あの家のお母さん役、誰がやるのよ?」お母さんが「お母さん役」と言ってしまうのがしっくりする。それがこの映画の全てだなあ。「向こうに見えるのは何?」、「どうやったらやり直せるんだろう」。夜の海の波間の果てで光るもの。あの辺素晴らしいです。

 あの配給所を撮ったのは、会社のすぐ近所だと思う。一度、デジカメ持って写真でも撮ってこようかな。遠くから見ているだけで足を実際に運んで行ったことないんだけど、ちょっと行ってみたくなってきた。