「聖の青春」: 大崎 善生

聖の青春 (講談社青い鳥文庫)

聖の青春 (講談社青い鳥文庫)

 読了。
 「人生は麻雀の縮図だ」と喝破して大学を中退した知人がいたが、この本を読んでいて、ふと、そのことを思い出した。
 将棋が世の中を変える訳でもないし、何かの役に直接立つ訳でもない。将棋が何の役に立つのか?と言われても、何の役にも立たない。何の意味があるのか?と言われても何の意味もない。でも、そこに人生の全てをかける。そのとき、そこに意味が生まれる。無から有が生じる。それは、命懸けの跳躍だ。人の軌跡には、その人が生きて、考え、思い、願ったこと、そのことが刻まれる。言葉にできなかったことまでも含めて。
 ちょうどノーベル物理学賞を日本人3氏が受賞したそうだけど、あれも似たようなものだ。素粒子が6個だと言うことを理論的に予言することが何の役に立つ?と聞くこと自体が愚問だ。そんなこと何の役にも立つ訳がない。なんかの役に立ったら、それは何かの間違いだ。しかし、そのことを追い求めたこと自体がとてつもなく尊いのだ。何故なら、それは人間の知りうることの一番遠くまで行ったということだから。人間の知りうる世界、理解しうる世界を広げたということだから。益川氏の「大してうれしくない」というのは、ある意味、ごもっともだ。賞なんて、その理論を完成させたときの本当の喜びに比べれば、おまけなんだから。それを正直に言ってのけた気概が、こちらにも伝わってくる。ちょうどこの本の中の村山棋士の言動にも重なって見える。
 羽海野チカの『3月のライオン』とか、柴田ヨクサルの『ハチワンダイバー』とか、近頃将棋漫画がちょっとしたブームなのだけれど、やはり、この本が及ぼした影響というのがすごくあるんだろうな、と読んでみて納得した。将棋は駒の動かし方くらいしかわからないのだが、所々で、思わず涙がこぼれそうになった。大崎善生氏の筆致がすばらしい。これだけ親しくつきあってきた人物を死後間もない時期に描くというのは、難しいことだと思う。感傷に流れることもなく、無理に突き放すでもなく、ただ書くことなのだ、というそのトーンは、この本の中の神戸大震災に当たっての谷川浩司の姿とも重なって見える。

 未来は知らん顔さ
 自分で作っていく


 本書の主人公、村山聖氏は1969年6月15日に広島で生まれ、幼少時よりネフローゼを煩いながらも、プロ棋士として活躍し、谷川浩司羽生善治らと幾多の熱戦を繰り広げ、1998年8月8日に故郷広島で癌で夭折した。
村山聖 - Wikipedia
http://www.kyouiku.town.fuchu.hiroshima.jp/kyonanko/satoshi/satoshi.htm