「コロッサル・ユース」@イメージ・フォーラム

映画「コロッサル・ユース」公式サイト
 雨が降っていたので、園芸に精を出せず(それでも、ペチュニアコリウスを中途半端にポッドに上げた。もう、根がジフィーポッドから出てしまっていたので。来週だ、来週だ。もう、来週はパンジーヴィオラも見切り時だ。)、久しぶりに映画を見に行く。これは、さすがに見ておかないと。
 で、見てきたんだが、まあ、これがまたすごかった。フィクションだと思うにはあまりにむき出しだし、ドキュメンタリーだと思うにはあまりに現実離れしている。ゴダールの「ドイツ零年」が20世紀の終わりという大きな物語の終わりを象徴していたとするなら、この映画は永遠に終わらない「終わりの後の世界」みたいな所に立っているのではないだろうか。ソクーロフの「静かなる一頁」が荒れた低解像度の画面でエレジーとして回収していた荒涼感が、ここでは人々が生きる世界の前提として突きつけられている。そして、何より、当たり前ではあるが、彼自身の「ヴァンダの部屋」は終わりでも何でもなかったということ。
 とにかく、視線が画面の中で交わらない。部屋の中で父と娘はテレビに向かうかベッドにうつぶせているかだし、男二人はテーブルの上のカードと手元のカードにしか目をやらないし、遠くを見つめているのは何か目の前のものを見ているのではなく何か思いに耽っている姿だ。その思いの先に視線は向かっている。決して画面の中の2点を結ばない視線。画面の先に向かって消えていく矢印。