『夜顔』、『わが幼少時代のポルト』

夜顔("Belle toujours")
フランス映画、2006年、70分
監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影:サビーヌ・ランスラン
音楽:ドヴォルザーク(ドヴォルジャーク)「交響曲第八番」(指揮:ローレンス・フォスター、演奏:グルベンキアン管弦楽団)
出演:ミシェル・ピコリビュル・オジエ

Account Suspended

 『夜顔』にやられた。ミッシェル・ピコリは出演したのに、カトリーヌ・ドヌーブが出たくないと言ったというのが面白い。まるで、この映画そのもののような話だ。そこでドヌーブの役を引き受けたのが、ラウラ・ベッティかなんかじゃなくて(とっくに逝くなっているけど)、ビュル・オジエというのも良いじゃないか。オマージュとして出てくる鶏もあそこしかないという敬意を感じさせるタイミング。良いじゃないか。慎みと大胆さとは決して矛盾するものではない。今年100歳になる1908年12月11日生まれの監督にとっては。彼はどんな思いで絶頂期のブニュエルの活躍を見ていたのだろうなあ。それにしても、新年そうそう、また、気持ち良くやられた。
 最初のオーケストラのショット一発で、完全な絵であれば細かくカットを割ったり、カメラ動かしたりなんて無駄なことは必要ないと言わんばかりの堂々たる取り方で、天井とオーケストラの間にスクリプトがきちんとはいるとこなんか、あそこだけでもう美学という感じで、そのまま最後まで悠々たる流れに身を任せた。
 それから、あのいい年をした鬼ごっこの面白さ。ホールを出たところで彼女が車に乗り込み去っていったのを目撃した後、ミッシェル・ピコリが門を閉められるまでぐずぐずしているところを長々と取るのも、これからどうすんのかなあ、という余韻たっぷりで良い。こういう贅沢なことやって全体を70分に納めるんだからなあ。達人としか言いようがない。もう一つ贅沢なのが、あの食事のシーン。あんなに気まずく、無言で、あんなに旨そうなものを残しながらさっさと片づけていくというシーンを延々と撮ることが出来る人は、他にはいないでしょうね。もう、あそこは面白くて仕方がなかった。ミシェル・ピコリビュル・オジエは圧巻だし、これをやらせるんだから、100歳になる人というのは違う。彼女が出ていった後、彼女のハンドバッグから給仕に金を与えるミッシェル・ピコリも、何とも言えない哀しさがあっていい。その給仕達が「変わったお方だ」と交互に口々につぶやきながら、部屋が片づけられるまで撮り続けるのも、余韻の美学。
 この映画自体が、30年前のブニュエルの傑作『昼顔』の余韻だとも言える。100歳を迎えた男にとっても、『昼顔』に出演したミッシェル・ピコリにとっても、ドヌーブの代わりを引き受けたビュル・オジエにとっても、この映画自体はこの映画以前のあれこれの余韻だと言えるだろう。その余韻が静寂の中に消えていくまでを、一滴たりとも漏らすことなくそのまま捉えてみせる手つきの繊細さと完璧さ。傑作という他はない。

わが幼少時代のポルト("Porto da Minha Infância")
2001年、フランス=ポルトガル、61分
監督 : マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:パウロ・ブランコ
撮影:エマニュエル・マシュエル
衣装:シルヴィア・グラボースキー
配給:アルシネテラン
出演:リカルド・トレパ、ジョルジュ・トレパ、レオノール・シルヴェイラ、マリア・ド・メディロス、レオノール・バルダック、マノエル・ド・オリヴェイラ

Проектори за домашно кино и бизнес. Екрани и стойки | Home Cinema

 『わが幼少時代のポルト』もたまらない一品。さすがに、これが最後の監督作品になるのかもしれないという覚悟と、ならば何を悩む必要があろうと孫に過去の自身を演じさせてしまういう大胆さが、圧巻。彼や彼の世代にとっての「ヨーロッパ」という概念は、EUという運動で必ずしも全てが実現されたわけでもないだろうが、前進はしたのだろう。その肯定的な側面と、実現されなかった思い、逆に虐げられざるを得なかった思い。極東の島国でこの映画を見るものには全てを受け止めることは難しいのかもしれない。それでも、彼の精神や最後の旧世界人といった自分自身での認識が伝わってくる。監督自身のナレーションと作中人物が会話を始めたり無伴奏の子守歌に続いたり、この音一つ撮っても、大胆かつ自由自在に語りを進める手際の鮮やかさ。融通無碍な映画という他ない。
 これを見ているであろうゴダールは、自分の最後の作品はどうあるべきだと思うのだろうか。