東京フィルメックス初日

TOKYO FILMeX

14:40 「オープニングセレモニー」/「それぞれのシネマ」
セレモニー(30分)
山崎裕(撮影監督) 日本
行定勲(映画監督) 日本
ドロテー・ヴェナ−(映画作家、ジャーナリスト) ドイツ
クリスチャン・ジュンヌ(カンヌ映画祭代表補佐) フランス
[会場] 東京国際フォーラム・ホールC

 カンヌ映画祭60周年を記念して、世界中の映画監督に3分ずつの短編映画を依頼して、制作された映画で、日本代表は北野武。監督のクレジットが最後に出るものがほとんどなので、これはだれだろうと思いながら見るのが楽しかった。アンゲロプロスみたいだ、すげえ、誰これ?と思ったら、アンゲロプロス本人だったり。それもあんまりかな、でも、あの空間の使い方ひとつで3分間にまごうことなき自分の刻印を押して見せるのはさすが。あのマストロヤンニはそっくりさんなのか、どこかのフィルムから持ってきたのか、こうのとりのアウトテイクかなんかなのか、なんて言ってるときりがないな。あの黄色いレインコートの人々含めて、「こうのとり、たちずさんで」なんだろうな。でも、ジャンヌ・モローは泣けた。
 チェン・カイコーの子供たちが自転車で映写機の電気を発電するのは、すごく良かったな。
 冒頭の開会挨拶で林ディレクターがわざわざ言及してたということは、「食べよ、これは我が体なり」がおもしろそうだ。見る時間作れるかなー。
 さて、飯食って次の映画に備えないと。

北野武ガス・ヴァン・サントツァイ・ミンリャンマノエル・デ・オリヴェイラホウ・シャオシェンウォン・カーウァイラース・フォン・トリアーアモス・ギタイテオ・アンゲロプロスチェン・カイコーオリヴィエ・アサイヤスビレ・アウグストジェーン・カンピオンヴィム・ヴェンダース、ユースフ・シャヒーン、イーサン&ジョエル・コーエンデヴィッド・クローネンバーグジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、レイモン・ドゥパルドン、アトム・エゴヤンアッバス・キアロスタミアンドレイ・コンチャロフスキークロード・ルルーシュケン・ローチアキ・カウリスマキナンニ・モレッティロマン・ポランスキーラウール・ルイス、ウォルター・サレス、エリア・スレイマンチャン・イーモウマイケル・チミノアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

が35人の監督で、33本(イーサン&ジョエル・コーエンジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは2人で1本)。さすがに、この人どんな映画だったっけというのもあるな(苦笑)。マノエル・デ・オリヴェイラフルシチョフヨハネ13世の出会いというのは、訳の分からぬとぼけぶりで参った。なんだ、あれは?ラース・フォン・トリアーは、うるさく話しかけてくる隣の観客をハンマーで殴り殺してしまうという訳の分からない話なんだけど、悪趣味で笑えた。なんで、ハンマーもって映画見てるんだよ(笑)?まあ、こう言うのは玉石混淆の福袋みたいなもので、見ることに意義があったかと。日本公開も決まっていないみたいだし。

19:10 『無用』
Q&A (20分)
ジャ・ジャンクー(映画監督) 中国
チャオ・タオ(プロデューサー) 中国
[会場] 東京国際フォーラム・ホールC

 『無用』というのは中国の若い女性ファッションデザイナー馬可が立ち上げようとしているブランド。そのデザイナーのドキュメンタリー(半分くらい)、中国の縫製工場、山西省の仕立屋、と対象を移動しながら、変わりゆく中国の姿が衣服を巡って描かれる。
《無用》のモデル馬可 : 開始工作坊
 このデザイナーがおもしろい。昔は母親が子供に服を作った、だから、その服にはただの服だけではなかった、今の既製品の服では作り手の顔が見えない、服を作る人と着る人の間の関係性が失われてしまった、私はその関係性を取り戻したいのだ、という。そして、服を一度土に埋めることで、風合いを出して、自分の力だけによる作品ではなく、自然との共作のようにして服を作るのだという。この『無用』というブランドのパリでのファッションショーでも、モデルは体中に泥を塗り、会場には土がひかれていた。
 発想のスケールが凄い。ちょうど日本の高度成長期には、文化的に「土着」という概念が顕揚されたことを想起させられる。ただ、日本の70年代の「土着」と比べると、情念みたいなものが灰汁抜けした爽やかさを感じもする。
 例によって、映画は移動撮影から始まり、工場、馬可、山西省の仕立屋とジャ・ジャンクーの視点は移動していく。Q&Aでも「私の映画は、劇映画はドキュメンタリーのようで、ドキュメンタリーは劇映画のようだといわれるが、映画は自由で良いのではないか」ということを監督当人も言っていた。それはその通りで、分かっていても、途中であれどうなっていくんだ?と展開が読めないのが、またスリリングだ。わかりにくい、といえば、わかりにくいんだが。でも、そもそも現実っていうのはそういう予想できないもので、整然とまとめられたドキュメンタリーというのを、我々はドキュメンタリーとはそういうもの、と思いこんでしまっているだけだ。むしろ、ジャ・ジャンクーの気まぐれと一見思えてしまうような展開は、曲がり角を曲がったときに突然見えてくる光景のようなものを我々にぶつけてくる。そういう出会いというか、発見というか、衝突というか、そういうものが、本当のドキュメンタリーなのではないか。ドキュメンタリーといっても、実際に何かが起こったときの映像を中心にしたものは、実は少ないのではないだろうか。後から、インタビューや取材を重ねて、事実を「構成」していくようなドキュメンタリーに比べて、ジャ・ジャンクーの映画は何かの記録を目指しているのではなく、そこで何かをおこすこと、映画を撮ると言うことのドキュメンタリーとでも言ったものではないだろうか。それは彼自身、被写体、観客の関係といったものに軋みを引き起こす。そこに彼の映画の面白さがあると思う。
 パリのファッションショーでは、モデル達が裸になって顔や体に泥を塗りまくり、衣装を纏い観客の前に出て行く。山西省の炭坑のシャワー室では、炭坑から出てきた労働者達が素っ裸になり、泥だらけになった体の泥を洗い落とす。この2つのシーンの対象の鮮やかさと面白さ。中国の炭坑で泥を落とすものがいれば、その一方で、パリでは美しいモデル達がわざわざ顔に泥を塗る。でも、泥を塗ったり、服を土に埋めることで、本当に失われた関係性やらなんやらを取り戻すことが出来るのだろうか。むしろ、失われたものをホルマリンの標本にして提示し、喪失そのものを見せると言うことなのかもしれない。

21:30 『東』、『私たちの十年』
舞台挨拶(10分)
ジャ・ジャンクー(映画監督) 中国
チャオ・タオ(女優) 中国
[会場] シネカノン有楽町1丁目

 『私たちの十年』はドキュメンタリーと言うよりは短編で、8分間なのだけど、電車の中で二人の女性が繰り返し繰り返し出会う。その月日の流れと共に、電車の車内も立派になっていくし、一緒にいる人も変わっていくし、年下の女性が年上の女性を記録する手段も変わっていく、そこに中国のこの10年の変遷が映し出されるという趣向の小品だけど、これは良かった。最初は貨物列車じゃないのかという車内に椅子が出来てどんどん立派になっていく。記録手段も、最初は似顔絵だったのが、写真になり、ポラロイドカメラになり、カメラ付携帯電話になっていく。途中で友達や赤ん坊も現れるが、最後は二人ともひとりぼっちなのがミステリアス。列車からの風景も良い感じ。佳作。
 『東』は中国の新進の画家のドキュメンタリー。これに、さらに建築家の話が加わって、芸術家ドキュメンタリー三部作になるらしい。場所は『長江哀歌』と同じ三峡。前後して同じ場所でとられた作品。
 画家はこの地区の労働者を描きにやってくる。彼はたくましい彼らの生命力をキャンパスに描き出す。畳みたいなキャンパスを6,7枚並べた大作を彼は描き続ける。しかし、そのモデルの労働者の一人が工事現場の事故で死んでしまう。彼は残された家族に絵の作成のために撮ったデジタル写真のプリントアウトを渡す。そして、今度はタイへ行き、若い女性の絵を描く、というのが、あらすじなんだけど、こう書いても、何にも面白くないな。
 この画家さんは、プラクティカルな話が面白い。彼の描く大作全体を見るには、遠くに離れて全体を見る必要があるが、そういうことを気にすると勢いがなくなるので近くでしか見ないようにしているとか、異国で自分が分かるのは女性の肉体だけだから、背景は抽象的なものを選ぶ、とか、そういう画家の考え方とか言葉というのが興味深かった。