「生物と無生物のあいだ」: 福岡 伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

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 読了。これは面白かった。著者は分子生物学者なんだけど、久しぶりに名文を読んだな、と思った。

おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で降られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。‥‥‥別の言葉で言えば、研究の質感と言っても良い。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。往々にして、発明や発見が、ひらめきやセレンディピティにによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしも与できない。(p.55)

 この本はワトソン&クリックの有名な二重らせんの発見からの分子生物学の歴史を振り返る本でもあるのだけれど、評論家や作家が書いたものではなく、研究者が書いたものなので、こういう実感で書かれているのが面白い。
 まあ、手応えって、それは「どうもくさい、これは大きなヤマの予感がする」by刑事みたいなもので、それを直感とかひらめきというのかもしれないけど、当事者にとってはしっかりと手応えみたいなものがあるんだ、ひらめきじゃないんだ、捜査を続けさせてください、ボス!みたいな、良く考えると論理的にはわかったようなわからないようなこと言っているんだけれど、リアリティがある。そこの生々しさがこの本の魅力だと思う。

Chance favors the prepared minds.チャンスは、準備された心に降り立つ。パスツールが語ったとされるこの言葉のとおりのことが起きた。(p.128)

 良い言葉だ。

 シュレディンガーは『生命とは何か』の中できわめて重要な二つの問を立てていた。ひとつ目は、遺伝子の本体はおそらく非周期性結晶ではないか、と予言したことである。ふたつ目は、いささか奇妙に聞こえる問いかけだった。それは「なぜ原子はそんなに小さいのか?」というものだった。(p.132)

 ノーベル賞取っちゃうと、後の人生大変らしい。こういう本質的な問いかけをする人というのは、本当にすごい。一歩で普通の人の百歩分くらい移動しているような。巨人だなあ。

 それは決してランダムな試行と環境によるセレクションによるものではなく、そのような淘汰作用よりも下位の次元であらかじめ決定されていることなのである。らんあdむなのはむしろそのときの原子や分子の振る舞いであり、その中から如何に秩序が抽出しうるかが問題となる。そのための大前提として、いみじくもシュレディンガーが看破したように、原子に対して生物は圧倒的に大きな存在である必要があるのだ。(p.146)

 統計物理学のそのもう一つ上の次元。

 生きている生命は絶えずエントロピーを増大させつつある。つまり、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物がこのような状態に陥らないようにする、すなわち生き続けていくための唯一の方法は、周囲の環境から負のエントロピー=秩序を取り入れることである。実際、生物は常に負のエントロピーを”食べる”ことによって生きている。(p.149)

 組織論のたとえ話に使えそうだな、とか思ってしまう。

よく私たちはしばしば知人と久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かってあなたの一部であった分子はもうすでにあなたの内部には存在しない。(p.162)

 これが科学者のユーモアですね。

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければいけない。(p.166)

 逆に言えば、秩序が硬直化してしまうと、体制が壊れていく。

 生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれに瞬間でも危ういまでのバランスを取りつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りの出来ない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである。(p.284)

 「私と動的平衡」というのが、この本の副題かなあ。。