「マリー・アントワネット(下)」:S・ツヴァイク

 読了。上巻のお気楽なおばかさんぶりと下巻の立派さが落差がありすぎで、戸惑いを感じたな。まあ、必要に迫らなければ、王女さまなんてやっていられない、というだけの賢さを持った人だったのかもしれないけれど。
 こういう伝記って、本当に自分で見てきたように書くけど、ここまですべて事実や資料だけで書ける訳はない。存在する資料だって、著者自身があとがきに述べているように怪しいものばかりだ。でも、資料の正贋を見極めるだけなら、学問の範囲で終わってしまう。何が真実かを見極めるのは学問なら大切だが、それだけでは何の意味もない。本当にそれがどういう事だったのか、そこが真に論じるべき点の筈だ。とはいえど、それを論じ始めると、今度は資料の並べ方、出し方一つで、結論や意味は変わってきてしまう。それをして作為的というわけだ。斯くして、作家と学問、作為と衒学の堂々巡りが完成する。
 このシュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」は角川文庫と岩波文庫からも、別の版が出ているみたいだから、マリー・アントワネットものの嚆矢とも言うべき本のようである。革命派でも王党派の視点でもなく、一人の平凡な人間として歴史上の人物を描いたという点では、1932年の出版時にしてみれば画期的な仕事だったんだと思う。スキャンダル的な話とか、際どい話も、客観的な資料を基に論を張っているようなので、説得力はあるのだけれど、どうにも書き方が分析的なしつこさがあって、この人粘着質だなあ、というちょっといやらしい感じはする。ナチスを逃れて、南米で最後は自殺してしまった人らしいが、何だか分かるような気がする。あんまり好きなタイプの作家じゃないなあ、とは思った。でも、これは上手いことは上手いし、作家が描いた一つの肖像画としては見事なものだと思う。
 挫折する数度の脱出や、ミラボー一人二役の怪物ぶり、歴史の影に埋もれていたスゥエーデンの騎士との愛、絶望的なルイ十六世の無能さ、などとにかく面白い話であることは間違いない。しかし、後世から見れば、崇高な精神と威厳を備え栄光に包まれたマリア・テレジアよりも、愚かな振る舞いの伝説と恥辱によりマリー・アントワネットが大きな名を残したというのも皮肉な話だ。
 「自由、平等、博愛」という美しい崇高な理念が、いかに下衆で野蛮で粗野な人民の血塗られた手によって人類の歴史に灯されたのか。人民を長年にわたって圧政の元に支配し享楽を貪った王室には、崇高な精神や真の威厳などなかったのか。崇高な精神を持つ民衆もいれば、唾棄すべき低俗な魂しか持ち合わせない民衆もいるし、王室や貴族についてもそれは然りだろう。それは、一人の人間の中にすら同時に存在する。このツヴァイクの伝記は、歴史が善なる人々と悪なる人々、そして何よりも多くの平凡な人々によって作られてきたのだ、それは何時の時代でも変わることはないし、真の歴史の担い手とはそうした一人一人の人間には帰することが不可能な大きな潮流でしかないのだ、という彼の歴史観を鮮烈に余すことなく示していると言えるだろう。