機能美〜テクノポップ〜YMO

 機能美というのは、実用品の機能を追及する究極において到達する美しさのことだと思うのだが、最近はいきなり機能美を目指してデザインした結果、機能が破綻して使いものにならないものがある。そんなものを見ると、もうどうにも脱力感を禁じえない。
 というのも、最近職場の引っ越しがあったのだが、その新しいビルがその最たるものなのだ。何でもかんでもガラス張りにした結果、どこにガラスがあるのか分からなくなり、ガラスに頭から衝突する事故が頻発している。あちこちをおでこに絆創膏を貼った人が歩いているのを見ると、もう馬鹿馬鹿しくて、全身から力が抜けていく。
 最近、ちょっとYMOリバイバルしてるけど、テクノポップというのもなんだかそんなところがあったような気がする。クラフトワークのようなバンドはシンセサイザーのいかにも機械が出しているという音で、ポップな曲を演奏していたけれど、あれも最初から機能美を目指していたが、肝心の音楽としてどうだったかというと、やはり、コンセプト先行でどうにも貧しい音楽だったような気がする。そういえば、ゲーリー・ニューマンなんていたなあ。
 それをミニマリズムというのだ、というのは、裸の王様親衛隊の言い分のような気がする。そこのいかがわしさについて、YMOって自覚的だったから、海外で『どうせ日本人と中国人の区別もつかないんだろう?』と言わんばかりに人民服を着て、みんなが期待するようなテクノテクノなサウンドを演奏して見せていたわけで、そこの批評性は、やはり評価したい。機能美としてのテクノポップという虚構を脱構築していたのだ(なんて言い方が流行っていた時代だったんだよなあ)。「虚構としての機能」を追及していくことで、逆説的に機能美とポップさを奇跡的に同時に獲得してしまった、とでも言えば良いだろうか。
 この前、YouTubeで昔のライブ見ていたら、坂本龍一が若いんだよなあ。高橋幸広のドラムも軽くて小気味良いし、矢野顕子も本当はサポートなんて面白くないんだろうけど一生懸命やってる感じで、ああ、この頃から教授とラブラブだったんだな、その二人が子供作って離婚成立しちゃったんだから、月日が流れたんだなあ、と妙に感慨深い。細野さんの永遠の妖怪ぶりだけが、月日を超越していて、何だかおかしかったりする。
 当時そんなにファンだった訳でもないのだが、1枚目だけは良く聞いたんだよなあ。そのときは「東風」とか「中国女」って、何なのかも知らずに聞いていたんだよなあ。ゴダールだって、自分が破門した弟子のベルナルド・ベルトルッチの映画で中国東北部の植民地のファシストを演じた音楽家が自分の映画のタイトルを冠した楽曲を演奏していたバンドのメンバーだということなど、きっと知らないんだろうな。

YELLOW MAGIC ORCHESTRA

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