日本の捕鯨船に約300万円の懸賞金 - オーストラリア

http://www.afpbb.com/article/1282703

シドニー/オーストラリア 30日 AFP】「捕鯨船への体当たりも辞さない」という攻撃的な活動手法で知られる反捕鯨団体シー・シェパード(Sea Shepherd Conservation Society)」が、このほど、日本の捕鯨船の居場所に関する情報提供者に2万5000ドル(約300万円)を提供すると発表した。

 捕鯨を妨害しようと南洋上で捕鯨船の捜索を行っている同団体のポール・ワトソン(Paul Watson)代表は、南極海でAFPの取材に対し、「日本の捕鯨船は、われわれ反捕鯨団体の追跡をかわすために高度な衛星技術を使用している」と語った。

 「われわれも、衛星が上空を通過する時間には氷山の陰に隠れるなど、手は打っているが、不利な立場にあることには変わりがない」と、ワトソン代表。

 これって、ほぼ海賊では。鯨のためなら日本人殺しても良い、位言いそうだな。人間よりも鯨に親近感持っているとしか思えないなあ。
 知能を持っている動物を殺して食べてはいけない、と思う気持ちは分からないでもないのだが。心があると思ったら、その動物を殺して食べるというのは、人を殺して食べるのとどう違うのか?と言われれば、それは同じことかもしれない。心を持つものを心を持つものが殺して食べる。心を持つものが心を持つものを殺して、心を消滅させて、死骸という物質へ貶める。その死骸を食べると言うことは、心を食べるのではなく、心をこの世界に接続していた肉体という存在から切り離して食べる、ということだろうか。それとも、心自体を食べると言うことだろうか。
 でも、本当は心とは何かなど誰も定義できない。デカルト的に自分に心があると言うことは確かだとしても、その心が他の心の存在をどうすれば認識できるのだろうか。その他の心を自分の心が認識するには、その他の心の存在を自分の心の中に反映しなくてはいけない。自分の心が認識できるのは、結局、自分の心の中に映った他の心の影なのかもしれない。それが実態ある心の影なのか、自分の心の中に生じたただの陰影にすぎないのか、それは結局確かめる術もない。その影を自分の心の中に認めてしまったなら、その影の実態が人間であるか、鯨であるか、と言うのは、その心の主体にとっては大した問題ではないような気もする。
 捕鯨反対運動家の心の中の世界では、日本人と鯨が逆転しているようなイメージが生じていると考えても良いのかもしれない。
 Wikipediaでは、捕鯨についてこんな記載がある。

捕鯨(ほげい)とは、主に食用・油用にクジラを捕獲することである。

国際捕鯨委員会捕鯨を三つに分けて表現している。

1. 商業捕鯨
2. 調査捕鯨
3. 生存捕鯨

捕鯨方式の形態により次のように分けられている。

1. 母船式捕鯨
2. 大型沿岸捕鯨
3. 小型沿岸捕鯨

これを日本人に置き換えてみよう。

捕日(ほにち)とは、主に食用・油用に日本人を捕獲することである。

国際捕日委員会は捕日を三つに分けて表現している。

1. 商業捕日
2. 調査捕日
3. 生存捕日

捕日方式の形態により次のように分けられている。

1. 母船式捕日
2. 大型沿岸捕日
3. 小型沿岸捕日

 そう、これは家畜人ヤプーの世界。捕鯨反対運動の人たちの目には、世界がこんな風に映っているのだろう。そう考えると、日本人の捕鯨を耐え難いものとして行動を起こしたくなる気持ちも、理屈の上では分かるような気もしてくる。
 でも、「何故、人を殺してはいけないのか」という恐ろしい問もあるのだ。日本人がこうした捕鯨反対運動に言っていることは、彼らにしてみればこれと同じことだろう。「何故、心があるものを殺してはいけないのか」ということだ。
 心は他の心の存在をどうすれば確固とした存在として認めることができるのだろうか。他の心の存在を認めることができない心は、何によってその心自身の存在を明かし立てることができるのだろうか?他の心の存在を認めることのできない心は、自身の存在を自分自身に対して証明することができるだろうか?
 文化の問題と言うよりも、これは宗教や哲学の問題に帰着してしまうのだと思う。