「雨月物語」:監督 溝口健二@東京国立近代美術館フィルムセンター”没後50年 溝口健二再発見”

96分・35mm・白黒、’53(大映京都)(原)上田秋成(脚)川口松太郎依田義賢(撮)宮川一夫(美)伊藤熹朔(音)早坂文雄(出)京マチ子水戸光子田中絹代森雅之、小澤榮、青山杉作羅門光三郎、香川良介、上田吉二郎、南部彰三毛利菊枝

  • 上映前(モバイル更新)

 やっぱり、1本見て帰るって無理だな。さあ、2本目。でも、この2本並べるって、豪華すぎというか、感覚がフローオーバーしそうというか、たまらないというか。

  • 上映後(モバイル更新)

 うーん、やっぱりすごい。無駄どころか、遊びも一切ない。すごい、すごい。
 何より、プリントがきれいなのがうれしい。さすが、国立。この2本はさすがにプリント状態も最高だと思う。はあ。まいったあ。この日本は何回も見ているはずだけど、やっぱり、見るたびに圧倒される。
 どっちも最後はクレーンなんだなあ。なんで、あのクレーンでふわーと上がっていくのが、ああも感動的なんだろうな。
 最初のタイトルバックの書体から、もうこの二本は力が入ってる。海外に持っていくということで、恥ずかしいものは出せない、という気持ちが一番最初のところから入っていて、それが最後まで画面のテンションが一瞬たりともダレない。ああ、疲れた。もう駄目。久しぶりにこれほど集中して映画見たなあ。

  • ウチでうだうだと

 「雨月物語」というのも、面白いけど、何だか変な話で、欲を出した男達が愚かだ、という一応の教訓みたいなものはナレーションで語られてはいるけれど、見終わってみると、むしろ、印象に残るのは女の業というか、情念というか、ソウルというか、魂というか、なんかそういうものなんだよな。無念なお姫様が化けてでたって良いじゃないか。夫が帰ってきた一晩くらい化けて出たって良いじゃないか。そっちの方が本当の主題だと思うのだけれど、建前的には、そういう訳の分からないことは言えないので、男の欲の愚かさ、というもっともらしいテーマが掲げられているけど、やっぱり、どう見てもあの二人の兄弟が印象に一番残る訳ではない。女の業の深さの怖さとありがたさ。それをこうして両面合わせて見せたというのが、この映画の面白さであり、溝口らしさなのだと思う。
 それから、溝口といえば長回し、というのが、必殺技ということになっているけれど、実際に見ていると、余り長回しと言うことに気が回らない。移動やクレーンを駆使して芝居を切らさず変化をつけているからなんだと思う。芝居を切りたくない、流れや呼吸を切りたくない、というのが、自然に長回しになっていったんだろうな。そこが、相米慎二アンゲロプロスの意識的な長回しとは違うと思う。その意味では、ソクーロフが一番の継承者なのかもしれない。編集を考えて撮る、編集でリズムや呼吸を作るというのが、嫌だったんだろうな。こう言うところはもう理屈ではなくて、個性、美学の問題なんだろうな。それと、当然のことながら、宮川一夫氏という天才カメラマンがいたからなんだろうな。
 この二本って、溝口の代表作だし、映画史上のベスト10を選ぶとしたら、どちらかは絶対入れなきゃいけないと思うのだけれど、実は溝口のフィルモグラフィーを眺めると、結構珍しい部類のテーマのような気もする。古典を取り上げた時代劇、ということもあるだろうけれど、「西鶴一代女」とか「殘菊物語」なんかの方が、本当は溝口っぽいテーマなんだと思う。彼がもっと長生きしてくれていたら、この辺の印象も大分変わるような作品が撮られていたのかもしれないけれど。