Star Wars、またはエンジニアの神話

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

 上の本でスター・ウォーズの話が面白かったので、スター・ウォーズの話をする。私は最初から全部一応封切時に見ている。1975年生まれの人たちは、前に戻って追いかけて見ていることになる、というか、第一作がエピソード4なのでややこしい。旧三部作から見はじめた世代と新三部作から見はじめた世代というのは、多分随分とらえ方も違うんだろうな。そんなに熱心なファンというわけでもないので、Wikipediaを適当に参照しながら、以下書いてみる。明日から溜まりまくった休暇を今年いっぱい取るので、のんびりまったりと。
スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望 - Wikipedia
 たいして熱心なファンでもないが、『スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス』が公開された頃は、シリコン・ヴァレーのベンチャーのエンジニアとのメールのやり取りで、"Best Regards"とか"Your Sincerely"じゃなくて、"May the Force be with you"とやって受けて喜んでいた覚えがある(ジェダイの「サヨナラ」の挨拶)。エピソード4の頃は、キャンプファイヤーの薪をライトセーバーにして遊んだのも思い出した(危ない‥‥)。今じゃ、ちゃんと玩具のライトセーバーも売っているが。その意味じゃ、私も同類だった訳である。
 そういうスター・ウォーズって、何なのだろうな。といえば、エンジニアの神話なのかもしれない。神話というのは、”事物の起源や意義を伝承的・象徴的に述べる説話的物語”ということだ。つまり、何故、人間がこういう物語を必要とするのかと言えば、集団の構成員がこの世界の起源を理解し、根元的な価値観を共有するためのシンボルとしてのストーリーが必要だと言うことだ。これは、正に上の本に出てくる、はてなの近藤氏が梅田氏に取締役になるにあたってスター・ウォーズを全部見ておいてくれといった話そのままだ。集団に所属するなら、まず、神話を知らなければいけない、という訳だ。
 では、何故、スター・ウォーズがエンジニアにとっての神話となるのだろうか。これは、日本でもアメリカでもそうだということは、多分世界中でそうなのではないか。だとしたら、エンジニアは何故スター・ウォーズを神話とするのか。それには、スター・ウォーズというのは、結局何だったのか、ということを考えなくてはいけない。スター・ウォーズの世界とは何なのだろう?
 あの世界が不思議なのは、宇宙船やロボットなどのテクノロジージェダイの理力=フォースのような超自然的な力、超未来的な建物が林立する都市と怪物が跋扈し自然が猛威を振るう世界、といった対立する要素が、常に併存していることだ。未来と古代の概念が無限遠の彼方で流れ込んでいる一点、それがあの世界なのだと思う。それは、一見非常に不思議なことにも思えるが、今ではない遠いいつかの物語、我々が夢想する世界と考えれば、それは何の不思議なことでもない。古代ローマのトーガ風、王朝風のドレス、機能的なサイボーグ風のスーツ、そんな衣装を着た人物が入り乱れるのも当然だ。
 この点を取ってみても、スター・ウォーズの世界観と「ブレード・ランナー」や「マトリックス」の世界観はかけ離れていることがよく分かる。「ブレード・ランナー」や「マトリックス」の世界は、あくまで今と地続きの遠い未来の物語だ。どちらも、P.K.ディックの影響下にあって、サイケデリックなヒッピー・カルチャーがハイテクで悪夢のような世界に展開するという物語だと思う。なんだか、あの二つはむしろ文系受けするというか、文系の人が怯えるテクノロジーのイメージを拡大したようなところがある。理系のエンジニアより文系のSFマニアをむしろ刺激するようなところがあるのではないか。理系的・技術者的には「おもしろいけど、こんなのありえなね〜よ」で終わりなところが、むしろ、文系的にはそれで済ませられない漠然としたテクノロジーの進歩に対する不安感を概念的に煽るようなところがあるのではないだろうか。
 そもそも、ルーカスもスピルバーグも黒澤信者で、その黒澤がジョン・フォード信者なのだから、どう見ても基本は西部劇の筈である。それが、どうしてあそこまで壮大なスペース・オペラになってしまうのか、と思って、色々調べていたら、ヨーダのモデルはあの依田義賢氏である、という説が出てきてはまってしまった。
ヨーダについて知っている二、三の事柄
そりゃいくら何でも、too interesting to believeだろう。
 閑話休題スター・ウォーズを特徴づける美学というのは、量なのだと思う。全6部作(9部作ではなくて、公式的には6部作と言うことになっていたらしい)という長さ、宇宙船のタイトルバック、ドロイドのモブシーン、など、圧倒的な量というのに、みんなやられてしまったのだ。美学的には、「ブレード・ランナー」の密度や「マトリックス」のワイヤーアクションやCGで作られた0と無限大が自在に変幻する電脳空間のイメージのような複雑な物ではない。
 ストーリー自体にしても、基本は勧善懲悪的な単純な話だ。それが、エピソード3でダース・ヴェイダーが誕生するところで、急に悲劇へ転調することで、多少ややこしい要素が出てきたが。それとて、神話的な話に付き物の話だ。
 にもかかわらず、登場する人物や生物、様々なロボットや機械には、2時間の映画では消化できないほどのディテールやストーリーが背後に設定されている。そこがマニアックな興味や関心を引きつけているのだと思う。
 圧倒的な物量、シンプルな勧善懲悪のストーリー、果てしないディテール、それは、正にアメリカの夢そのもののように思える。遺跡を発掘しなければ解明できないような歴史(それは人為的にいくらでも書き換えられるような支配者にとって都合の良い歴史でもあるだろう)を持たない国は、人工的に神話=自分たちのイメージを作らなければならなかった。それがハリウッドだった。そのハリウッドに反旗を翻し、インディペンダントの道を選んだルーカスも、また、自分のための神話を作り出す必要があったのだと思う。それは自分たちが新たに作り上げるものである以上、未来のものでなければならなかっただろうし、神話である以上どこかで過去の全てとも似ていなければ、神話らしくはない(身も蓋もないし、こう言ってしまうのもなんだが)。そうしてできあがったのが、あのアメリカ的な世界なのだと思う。多分、ルーカス自身はそういう意識はなかっただろうが、出来たものが非常にアメリカ的な価値観のものになっていることは、それだけに当然だと思う。
 その圧倒的な物量感のある画面を実現しているのは、結局、テクノロジーである。旧三部作の特殊撮影、新三部作のCG、など、存在しない世界をここまで技術で作れるのか、というのが、スター・ウォーズの驚きなのだと思う。実際、ルーカス自身もカメラやCGなどの映画に関する技術に対する関心は非常に高い。そのテクノロジーに対するセンス・オブ・ワンダーが、スター・ウォーズなのだと思う。有名なレイア姫の3Dホログラフィー画像が、その典型例だと思う。
 技術で一つの世界(と呼ぶにたる「量」)を提示できるというアメリカ的な楽天主義スター・ウォーズだったのではないだろうか。スター・ウォーズが示していたことの一つは、技術は新しい世界を実現する、という価値観だったと思う。そう考えると、エンジニアが神話とするのも当然のような気がする。何だか、長々と書いてきた割に当たり前の結論で、ちっとも面白くないが。