「スクリーム・オブ・アント」:東京フィルメックス@有楽町朝日ホール

「スクリーム・オブ・アント」(仮題)イラン/2006年/90分/監督:モフセン・マフマルバフ

 モフセン・マフマルバフ監督は都合つかず、来日できなかったもの、最初にメッセージが読み上げられた。「これは哲学的なテーマを扱った映画で、イランの検閲や政治状況を知りたいのなら、時間の無駄なので、ここでお帰りになった方がいいですよ」とのこと。このメッセージを聞いて帰った人が、果たしていただろうか。
 イラン人の新婚夫婦が、カウンセラーに勧められて、インドへ「完全な男」に会いに行く。冒頭、夫婦が列車を待つところから始まる。手袋を日よけに目の上に乗せ、椅子に腰かけた妻。日傘を持つ夫。何時来るともしれない列車を待つ二人の影を小石で縁どる子供。この人は古典的な芸術家っぽい所もあって、ちょっといやらしいかな、と感じない訳ではないのだが、この辺のシーンなんか天才的にうまい。
 列車に乗り込んだ二人は乗りあわせたカメラマンに「目で列車を止める男」に会おう、と誘われる。その老人は線路に座り込んでおり、列車は停車を余儀なくされる。老人を取り巻く貧者の一群は列車の窓から施しを集める。夫は彼を貧者の一群から家族の元へ連れ返そうとするが、それはうまく行かない。再び、二人は探し求める「完全な男」を求めて旅を続ける。
 都市部で二人は貧困の実情を目にする。その夜、妻はガンジーに習い、セックスは子供を作るためだけにしようという。夫は怒って飛び出し、売春婦を買いに行く。夫は有り金を売春婦に与えてしまう。
 「完全な男」を求めて、旅を続ける二人。タクシーの運転手にハエがうるさいと言うと、「では、元いた場所にハエを戻す」と、運転手は道を引き返そうとする。二人はタクシーをあきらめ、徒歩で「完全な男」を探しに行く。信仰心の強い妻を、コミュニストの夫は「その一歩で蟻を踏みつけ、命を奪っていないか?」とからかう。
 「完全な男」がいるという辺りにたどり着いた二人は、道を行く牛飼いに「完全な男」を見たことないか?と訪ねると、牛飼いは「何度か見たことがあるから、私についてこい」という。「完全な男」の家に着くと、ちょっと待て、今彼が来るという。出てきたのは牛飼い自身だった。彼が「完全な男」だったのだ。彼は自身の姿を水に映った数度くらいしか見たことがないのだという。教えを請う妻に対して、タマネギの汁で「完全な男」はメッセージを書く。三日後、聖地ベナレスで火であぶって読め、という。
 ベナレスへやってきた二人は、ガンジス川を流れてゆく死体や火葬、沐浴をする貧者やこの地に住みつくドイツ人に出会う。あぶり出されたメッセージには、「世界中を旅した末に、庭の木の葉の滴に世界の全てが映っている」という詩が浮かび上がる。貧者と共に妻は沐浴を繰り返す。川に浮かぶ蓮の花の形の島に一人立つ夫のロングショットで映画は終わる。
 というのが、粗筋というには、本当に粗い筋。これを読んでもどうだ、と言うものでもないが、メモとして書いてみた。何だか、思わせぶりなところも多くて、正直、う〜ん、というところもある。
 その思わせぶりって何なのか、といえば、国際的に評価されているイランの映画監督が先進国の目線でインドをテーマに撮っているんじゃないか?それは、欺瞞ではないのか?イランは発展途上国なんだから、同じ発展途上国のインドに行って、貧困を目にして驚くこともないだろう、まるで、ヨーロッパのインテリ目線じゃないか?イスラム教徒が何故ベナレスに行かなきゃいけないのか?夫はフランス語をしゃべるコミュニストのインテリだけど、それって、先進国的にはかなり時代遅れのステレオタイプで、何それという感じではないか?何故、インドで「完全な男」でヒンズー教徒で、哲学的な映画を撮らなければいけないんだ?ということだ。その辺が、ちょっと納得出来ない。こういうこと言えば言うほど、黄色いバナナの日本人のお気楽な言い分になってきて、なんだか、自己嫌悪を感じもするけれど、ここがスッキリしないと腑に落ちないと思う。
 と思うのも、技法的にうますぎるからだ。あの椅子を常に持ち歩くところなんか、上手すぎる。イメージを作り上げるセンスに関しては、この人は多分世界でも一番かもしれない。かなり芸術的なことをやっても、それがくどくならずに、イメージ自体としてすっと画面から立っている。散文的ではなく、詩的なのだ。余分なものがない。それが逆に、意地悪い見方をすると、技法的で欺瞞だと見えるのかもしれないが。タルコフスキーパゾリーニがどうにも嫌だ、という人は、マフマルバフもダメだと思うんじゃないだろうか。
 「完全な男」のところも、牛飼いのショットはあっても、家について彼が「完全な男」だと分かるところからは、画面に彼の姿は現れない。これによって、あれ、彼はどんな男だったっけ?と思いながらも、「完全な男」というイメージを一瞬前の記憶の中に探ることになる。これは映画においては反則といえば、反則なのだけれど、やはり、どきっとさせられる。やっぱり、この人は天才だと思う。でも、これは画面の外に外す、撮らないことで想像させる、というトリックで、ちょっと、それって狡くないか?という気がしないでもない。
 どうにもいかがわしいような気もするけど、詩的(単に綺麗という意味ではなく)という意味では、やっぱりこの人はすごい、でも、何なのだろうなあ、この人は、という当惑と魅惑の90分だった。
モフセン・マフマルバフ - Wikipedia