「「家電対PC」対Web2.0」という二項対立問題

 MITのメディア・ラボが"Tomorrow's TV"というプロジェクトを始めたのはもう十年ぐらい前のことだっただろうか。ちょうど、ニコポンが出した本が流行って、”アトムとビット”がBuzz Wordだった頃だ。あの頃の問題意識は「この使いにくいPCが主流になるなんて、そんな醜い未来が許される訳がない。ユーザーフレンドリーなインターフェイスとして、TVがプラットフォームとして進化して、ネットやマルチメディアへの入り口となるべきだ。」と言うことだったと思う。
 メディア・ラボのこういう価値観は今の100ドルPCまで一貫している。ただ、あそこの価値観は、西海岸のフラワームーブメント的な楽天性とはどこか違うのではないかと思う。理想主義的というか、何というか。シリコンヴァレーが信奉する価値観が自由主義であるなら、それに対してボストンの第一の価値観は理想主義なのではないか。この二つが矛盾する訳ではなくて、順番の問題だが。
 $100 PCについてもう一つ言えば、あれは60年代の「飢えた子供は文学を必要とするか?」というテーゼの焼き直しのような気がしている。「飢えた子供を必要としているのは文学だ」という切り返しもあるが、その論理も全くそのまま変換可能だ。つまり、「飢えた子供はITを必要としているか?飢えた子供を必要としているのはITではないか?」ということだ。ニコポンとかアラン・ケイって、こういうテーゼを若いときに受け止めた世代ではないのかな?
 しかし、今やPCは家電になってしまった。ビックカメラとかヨドバシカメラで売ってるんだから、家電だ、という意味で。勿論、PCがテレビほど簡単に使えるようになったという訳ではない。にもかかわらず、多分、世帯別の普及率としても、PCは飽和に近いところまで来ているのだろう。というのはどういうことかというと、「情報リテラシー格差社会」というのが出来てしまったと言うことだと思う。これは世代などの問題もあるから、目に見えるような形にはならないし、実際の社会の中ではまだら模様のようなものだから、なかなか見分けにくいかもしれないけど。アクティブに自分から情報を探したり発信出来る人、メールレベルでパッシブに情報を利用出来れば十分だという人、ネットにアクセスしない人の3つくらいの「階級」(というのも嫌な言葉だが、どう言えばいいのだろう)がもう出来ているのではないだろうか。デジカメで言えば、デジカメの画像データを画像処理して使う人、自宅のPCに保存くらいまでしておうちプリントくらいで使う人、そのまま写真屋に持ち込んでプリントアウトする人、ということだろうか。
 マイクロソフトのゲーム機参入とか、インテルの家電戦略など見てると、この「PC対家電」という構図は消滅した訳ではないが、構図の前提とする状況はなかば決着してしまい、対立の構図自体の意味が薄くなってきている。その窓口はもうどうでも良くなっていて、肝心のコンテンツはネット上に移行する、というのがWeb2.0の衝撃だと思う。
 梅田望夫氏の「ウェブ進化論」でも、日本の大電気企業の人がこれからの先行きに暗澹たる思いを抱くという件があって、そりゃそうだろうけど、これって具体的にブレークダウンして整理すると、どういう風にまとめられるのかな、と思っていたのだけど、自分なりの答としてまとめてみた。

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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