■コンピュータは人間を進化させるか■アラン・ケイ氏インタビュー

後藤貴子の米国ハイテク事情
 こういう話を久しぶりに読んだような気がする。まず、「古い!」と反射的に思ってしまった。最近のエレクトロニクス関連の技術の話はすっかりビジネスの話と裏表のようになってしまって、こういうビジョンを語る人がいなくなってしまった。夢とかビジョンとか、そういう時代ではないのだ、という趨勢になってしまった。当然、それは技術の水源が枯渇してしまうということでもある。一方で、昔だって、そんなに採算無視ができた訳じゃないだろう、というのも見落としがちだけど、事実だ。そもそも、彼が所属していたPalo Alto Research Centerは世界を変えたが、Xeroxの事業に大した貢献はしていない、という歴然とした事実もある。
 この件が面白い。

(Altoを生み出した)パロアルト研究所は'70年代には多くの発明を生み出す有名なコミュニティだった。面白いのは過去約25年間、その発明がみな、再発明されていることだ。

 だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。

 今のIT技術には、こういう面が確かにある。勉強したり、調べたりするよりも、思いついたら、すぐやった方が早い。昔とは環境や状況も違うのだから、参考にならない。そもそも、調べなければいけないものが多すぎるのだ。爺はみんな、俺の昔話を聞いて、俺の書いたものを読めと言うんだよ。と、いうのがポップカルチャーの本音/言い訳だろうか。古い論文を読んで今の文脈に置き換えて考え、そこから何か新しいものを創造する、というのにも、当然、相当のクリエイティビティーが必要だ。

では科学者のように考えるとはどういうことか。これは、何に関しても注意深く考える人とはどういう人かということだ。科学者の中にも、物理に関しては科学者らしく考えられても、政治や宗教になると科学者らしく考えない人もいる。

 全く同感。理科系が論理的だというのは、幻想だ。身の回りを見ても、少なくとも、文化系には「分からなければ、考えない」という美徳がある。理科系は、「分からないと、我が儘を言い出す」という悪徳があるのではないか。まあ、これは個人的な偏見だけれど。

子供が科学で学ぶことの1つは、けっして物事を2つのカテゴリーに分けてはいけないということだ。一見すると、イエスとノー、正と誤に分けなければならない場合であっても。人間の神経システムは、物事を2つのカテゴリーに分けようとする。あなたと私、黒と白、善と悪。これは決定を早くする方法だ。だが科学では、あなたは3つに分類できないか5つはどうかと常に問う。多くのカテゴリーには名前もない。だからこそ難しい。

 何だか、こういう名言を聞くと涙が出てきそうだ。やはり、この人は人を感動させる何か持っている。「プレゼンはパワーポイント3枚にまとめろ、3枚にまとめられないのは錬れていないからだ。」みたいな暴力的な論調の世の中では、パワポ3枚程度の脳味噌しか育たないんだよな。スピード優先ででたらめな答を出す馬鹿が、熟考して素晴らしい回答を出す天才に勝ってしまう(少なくとも、人にはそう評価される)ことは、今の世の中では良くある話だ。先に何か言うことで、主導権を取ることが出来ると、本当にそうなってしまうことが多いのが、今の世の中の恐ろしいところだ。
 $100PCは、世界を変えるかもしれない。でも、アラン・ケイが、それでビル・ゲイツのような大金持ちになれる訳ではないし、彼もそんなことを考えている訳ではない。しかし、本当に世界を変えるような変化を起こすのは、こういう人たちなのだ。それは、生き方の問題だ。