「鉄路の男」@NFC

鉄路の男(83分・白黒)
Człowiek na torze

’56年(監)(脚)アンジェイ・ムンク(原)イェジー・ステファン・スタヴィンスキ(脚)イェジー・ステファン・スタヴィンスキ(撮)ロムアルト・クロパト(美)ロマン・マン(出)カジミェシュ・オパリンスキ、ジグムント・マチェイェフスキ、ジグムント・ジンテル、ジグムント・リストキェヴィッチ

 ポーランドの夭折した天才監督ムンクの処女作。これはなかなか良かった。頑固ジジイの機関車の運転手の話なんだけど、傑作。ムルナウの「最後の人」を思わせるような話だけど、共産主義国家での話なので、人間関係はきつい。
 機関車の油光する機械や車輪、走行する汽車からのローアングルとか、薄明の中を疾走する機関車のダイナミズムなんか、たまらない。あの車輪がむき出しで、がっしゃんがっしゃん動くのがたまらない。プラモ作りたくなってきた。機関車の車庫って、円形に機関車が並んでいるところが、実に絵になるんだよなあ。

 夜の機関車。突然前方に人影が現れ、急ブレーキをかけるが間に合わない。汽車を飛び降り駆け寄ると、それはつい先日首になった運転手のオジェだった。何故、彼は線路に飛び出したのか?調査委員会の委員や関係者は彼との思い出を語り始める。彼は昔堅気の運転手で、助手の若者に対しても厳しい。「俺は運転手になるのに12年かかった。お前はまだまだしごかねばならない。」と、彼は汽車の整備にここがダメ、あそこがダメ、車輪に油を差せ、石炭を釜にもっと入れろ、給水をさっさとしろ、と助手達を酷使し続ける。石炭の消費量を抑えるようにと言われても、頑として納得せず、自分の運転スタイルを変えようとしない。集会でも省エネへの署名を拒否し続ける。そんな彼が唯一心を開いてうち解けるのは、昔の仲間だけだった。昔の仲間とうち解ける彼に人間味を発見した助手は、彼も決して鬼のような人間ではないのだ、と思いもするが、宿舎に帰ってきた彼の態度はいつもの親方の部下を一眼だにしない態度だった。
 結局、彼は運転士を引退せざるを得なくなる。彼は腰に痛みを抱えており、屈むことができず、落ちた帽子を拾うこともできない。だが、常日頃の強圧的な姿勢から、帽子を拾わせようとする彼の態度を彼の傲慢と助手は理解する。彼も、あえてそんな事情を説明しない。結局、彼は機関区長から退職を勧告され去っていく。しかし、自分の全てであった機関車を忘れられない彼は、飲んだくれ、近所づきあいをしている踏切番のところに現れる。その日、踏切番は踏切のランプに油を入れているときに、子供のいたずらに気づかず、片方のランプに油を注ぎそこねてしまう。踏切番のところを辞去し、駅に行くのだ、と言い線路沿いに歩き出した彼は、踏切の片方のランプが消えているのに気がつく。火をつけようとしても、ランプに火はつかない。油が切れているのだ。列車はもうやってくる。このままでは脱線する。彼は線路にかけだし、時計を線路の真ん中におき、両手を大きく広げる・・・。

 あらすじは、こんなとこか。この運転士が、本当に厳しい昔の職人肌の爺で、どうにも好きになれるような人物には見えない。その一方、彼を糾弾する管理側や管理側から送り込まれてくる助手も、いかにも共産主義国家らしい非寛容さに満ちている。これはどう見たものか?と言うところで、はたと困った。この機関士は、共産党の不寛容や非人間性に対するアンチテーゼにはならないような、昔の頑固爺なのだ。共産党側の管理側もあまり良いものではない。リアリズムと思えばいいのかもしれない。いずれにせよ、あの時代にポーランドでこんな見方をしていた人がいたというのはすごいことだ。とは思うし、映画そのものも素晴らしいのだが、この監督がどういう考え方でこの映画を作ったのか、まだすっきりしない。