神聖喜劇 (第2巻)

神聖喜劇 (第2巻)

神聖喜劇 (第2巻)

 何なのだ、この凄さ。こんなに字が多い漫画がかってあっただろうか。あ、あった。マンガで読む思想家とかアジビラだ。これは、多分小説で読むより、このマンガで読んだ方が抜群に読みやすい。そりゃ、ものの形とか、人の顔とか、風景とか、そんなもの文章で書かれるより、絵で描いて見せてくれた方が早いに決まっている。これを原作で読むのはそれなりに骨が折れると思うのだが、マンガってやっぱり楽なのだ。当たり前だが。でも、逆に絵で論理を表現するのは不可能だ。象徴として表現することは出来ても、それは象徴であって、象徴というのは論理を理解して知識として持っていて始めて理解出来るものだ。象徴されるものを知らずして、象徴から象徴されるものを理解することは出来ない。その意味では、象徴とは極めて抽象的な高度の批評であると言えるのかもしれない。
 具象としての絵=感覚、抽象としての言葉=論理。多分、原作の論理以外の部分が絵として処理されていることで、むしろ論理の部分に集中しやすくなっているのだ。そして、具象の部分がより高度なイメージ=抽象になっている。文章と絵がこれほど見事に結合された表現というのは、何と比較して良いのか分からない。ゴダールは、言葉であれ絵であれ、あれは詩だ。画像と言葉が同じレベルで詩として響き合うのが感動なのだ。それに対して、このマンガは散文なのだ。散文として、イメージと言葉を一つに結合するなら、それはマンガという形にならざるを得ないのではないか。
 実際、ドストエフスキーを映画化して成功した試しがあっただろうか?ヴィスコンティーの「白夜」位しか思いつかない。でも、「白夜」なんて、小説で読んだこと無いもんな。
ドストエフスキー(Dostoevsky) のプロフィール - allcinema
 まあ、一応、このくらいはあるのだけれど、ブレッソンとかクロサワとか自分の題材として扱う自信がある人なら兎も角、普通あの世界を映画にするというのは諦める。
 その意味では、マンガというのは、論理と散文を忠実に内包することが出来る表現手段であって、その可能性の極北的な作品がこうして現れたと言うことは、まことに端倪すべきであり、そのこと自体だけで感動なのだ。
 埴谷雄高なんかも、この調子でマンガにしてくれると嬉しいな(お気楽な物言いだが)。挫折して、「死霊」も読破してないもんな。