「ネット進化論」を読む---グーグルは企業なのか?---

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

2006-02-23 - My Life Between Silicon Valley and Japan
 話が少しずれるので、章立てを分ける。「グーグル、お前は何者だ?本当に会社なのか?」というのが、この本を読んでいるうちに湧いてきたもう一つの大きな疑問だ。
 勿論、グーグルは会社だ。ちゃんとアメリカで上場を果たして、いまや10兆円の株式時価総額を持つ会社だ。しかし、この本で説明されている通り、どうにも会社っぽくないのだ。
 そもそも、会社の設立趣意書からして、「世界中の情報を組織化し、それをあまねく誰からでもアクセス出来るようにすること」をミッションとするというのだから、普通の会社ではない。しかも、本気でこの理念を実現しようとしている。前の話で言えば、CIAに喧嘩を売ることをミッションとすると言っているようなものだ。
 ならば、NPOでも良いのではないだろうか?という疑問も湧く。実際、最近発表されたグーグルパックでは、ノートンの「ノートン・セキュリティ」かなんかが、本来有料なのにフリーウエアとして配布されている。これは、マイクロソフト・オフィス潰しと見ても良いだろう。でも、こんな事をして、企業としては何の利益があるのか?ということになる。利益が上がらないのなら、何故こういうことをするのか?フリーウエアの幾つかをGoogleが標準として認めることで、デファクト化させるという気なら、それを通じて何をやろうとしているのか?社会貢献に過ぎないのか?それにしては、大々的にやりすぎではないのか?というのが、既存企業的な視点からの反応だろう。 
 この本を読んで初めて知ったが、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンの創業者2人は、マイクロソフト敵対的買収に対抗するための普通株式以上の強い議決権を持つ別の株式を保有しているという。一体どうすればこんな事が出来るのか、認められるのか、不思議だ。社会に対しては、世界の全ての知識を万人に対してオープンに公開しようとしていながら、自分たちのことについては極めてクローズな秘密主義を貫いている。Googleについて受ける印象は、この本でも述べられている通り、正に選良的なカルト集団なのだ。
 上の「Web2.0=民主的共産主義」説で言えば、Googleはむしろ独裁的資本主義というWeb2.0の対極にいるのかもしれない、と言う気すらする。ならば、それは今のロシアや中国と同じ考え方で、ただとてつもなくレベルが高いということだ。政治的に言うなら、それは発展途上の国においては場合においてはやむを得ない選択だが、常に危険をはらんでいる。ただ、Webという世界の成熟度を考えると、政治的に必要な選択なのかもしれない。
 彼らは、社会全体の活動の記録が有益であることを理解しているが、それを「正しい」と思っているのだろうか?「有益だ」と思っているだけなのだろうか?これは、「人工知能は本当に人間と同じ意味で考えることが出来るだろうか」という質問と同じことかもしれない。
 直感だけで、彼らの理念の本音を想像すればこういう感じではないのか。架空インタビューをしてみる。

「我々が企業という組織体を選択しているのは、それが現在の世界で成長するために最適の形式であると考えているからです。我々はIPOにより、死ぬまで何もせずに暮らしていけるだけの金を手に入れました。でも、何もしないで死を待ちながら暮らしていくなんて、そんなこと考えるとぞっとしませんか?我々がやりたいのは、我々がやりたいことをやりたいようにやることです。それは、この世界を少しマシな場所にすることです。ビル・ゲイツのように、手段を選ばずにゲームに勝ち続け、そうして得た富のほんの一部を、気まぐれでどこかに寄付してみせるようなことを言っているのではありません。
 当然、それには資金も必要です。経済的に成立しないようなものは国がするべき仕事ですが、経済的に成立するならば、それは民間で行うべきでしょう。我々は、十分な利益を上げながら、世界を変えることが出来ると信じているのです。
 その世界の中には当然中国だって含まれます。中国を変えるためには、まず我々も中国に進出する必要があります。勿論、中国政府によるグーグルのアクセス禁止に対して、放っておくという選択だってあったでしょう。でも、中国政府の情報提供の要求に応じて、中国でのビジネスに進出したいという企業は他にいくらでもあります。ならば、我々が進出した方が少しはマシだと思いませんか?
 何と言っても、我々は世界で尤も優秀な企業なんですからね。」

 書いているうちに、この後半部分への疑いが、どんどん膨らんでくる。グーグルが実現しようとしているかに見える”少しマシな世界”って何だろう?それは”富の再配分”のような仕組みのことなのだろう。究極のプラグマチズムという考え方は、イデオロギーなのだろうか、テクノロジーなのだろうか?それとも、ある意味、「人間とは?」という問に対する哲学的回答なのだろうか?
 Googleについては分からないことが多すぎる。この本に関する議論でも、Googleを評価しすぎだという意見があるようだが、それは結局、検索エンジン自体のビジネスの先に何をやろうとするのか?ということにかかっている。検索エンジンで広告モデルのビジネスに終わるなら、それは結局今の広告業界の枠を越えることはない。非常に効率的で異常に高収益のビジネスというところで頭打ちになってしまうだろう。それ以上の何をグーグルは本当に実現するのだろうか?というところが、個人的には興味がある。