「アワー・ミュージック」


 何故、日本タイトルをカタカナで英語にするのか?"Notre Musique"でも「我々の音楽」でもなく、「アワー・ミュージック」?理解できない。日本って、アメリカの属国だから、カタカナで英語って言うのなら、たいした皮肉だけど。それで、こんなおみやげまでくれるって、ゴダールまでおしゃれな商品化してしまう日本の消費社会に対する風刺だとでも言うんなら、それはちょっとやり過ぎなのではないだろうか?シャンテ新装開館で、これが観られるというのはめでたい話だし、初日特典のハーモニカまで貰って、いきなり文句言ってしまったが。指定席制になったのは、まあしょうがないし、本当に混むときはあそこの階段で待たされるよりは遙かにマシ。でも、30分は前に行った方が良さそう。NFCの「コタンの口笛」ギリチョンで間に合わなくて、京橋から歩いていったら、ちょうどいいくらいだった。おかげで珍しく初日に観ることができたけど。
 10分間「映画史」を見せられたあとに、「愛の世紀」の続きの本編が始まり、最後に90年代ゴダールで締めくくりという感じ。「愛の世紀」もそうだったけれど、ここのところのゴダールのアンナ・ハーレントやシモーヌ・ヴェイユといった20世紀のジャンヌダルク的女性へのこだわりが全体の通底をなしていることをひしと感じた。20世紀(の人間である自分)は、21世紀に何を残すことができるのか?何を言い残すべきなのか?ということを、真面目に考え込んでいるところが、この重さになっているのではと言う気がした。ある意味、この真面目さって言うのは、今の世界の状況を彼が如何にヤバイと考えているかと言うことの表れだと思う。こんなにゴダールが「真面目」だったことがかってあっただろうか?
 最後の部分を観てて、スーザン・ソンタグが「多くの罪のない人々を巻き添えにした9/11のテロリストは、少なくとも自分の命も犠牲にして自分たちの主張を示そうとした。コンピューターゲームのようなミサイル攻撃や、地上の敵からは捉えられない安全な高空から爆撃を行う米軍は、自分の命を戦いに晒している訳ではない。卑怯なのはどちらか?」というようなことを言っていたのを思い出した。勿論、イラクの米軍兵士もゲリラ相手に危険な目に遭っている訳だけれど、それでも国力と装備の差はいかんともしがたいし、象が蟻を踏みつぶすと足が汚れると言って、靴をわざわざ履いているようなものだ。
 また、見に行かなくては。