「渇き」 監督:グル・ダッド 1957年 インド 145分

  • アテネ・フランセで映画見るのって10年ぶり?ずっと見損ねていたグル・ダッドの「渇き」が見たいがために解禁。全然変わっていない=何となく、建物古びたなあ、と思った。椅子も固く感じたし。まあ、あそこはそれでいいんだけど。
  • 本当にこれは見て良かった。事故で死んだことになるまでもいいんだけど、その後が本当に凄い。ナボコフの短編で、詩人が自分の死後何周年の記念集会にいきなり現れるというのがあったけど、これと同じようなストーリーをインドで映画にしていたんだなあ。天才は共鳴するのだ。

ナボコフの一ダース (ちくま文庫)

ナボコフの一ダース (ちくま文庫)

    • 確かこれに入ってたと思う。

前半はインド流の歌と踊りが入るメロドラマ。売れない詩人のヴィジャイは失業中で、出版社に原稿を持っていくが、相手にもされず、原稿はくずかごに突っ込まれている。市場で甥っ子と母親に見つかり、実家に一度は返るも、兄弟に穀潰し扱いを受ける。そして、置きっぱなしにしていた詩の原稿も屑屋に二束三文で売られていたので、その屑屋に飛んでいくと、それを買っていった人がいるという。公園で途方に暮れていると、その原稿に書かれていた自分の詩が聞こえてくる。歌っていた夜の女グラーブを追いかけるのだが、金もない奴は御客じゃないと相手にもされない。しかし、彼が落としていった原稿の筆跡から、彼女は、彼こそがその作者の詩人だと気が付くが、既に彼の姿はもう見えない。ヴィジャイは絶望して公園のベンチで夜を明かす日々。食堂で文無しのヴィジャイを見かけたグラーブは代わりに支払いをしてあげるが、ヴィジャイは君からは施しは受けたくない、とにべもない。ある日、そこで昔の大学の同級生に会い、今日は友達が大勢集まる音楽会があるからと誘いを受ける。そのお祝いの席荷は彼のかっての恋人も姿を見せていた。彼は自分の今の絶望を吐露する詩を詠む。そこで、彼は、出版社の社長に声をかけられる。翌日、彼の元に原稿を持っていくもの、「出版するのは名のある詩人だけだ、アシスタントとして働け」と言われる。仕事もない彼には、他の選択肢がある訳でもない。そこで、また彼はかっての恋人と再び出くわす。社長の家のパーティーの手伝いに行った彼は、かっての恋人が今は社長の妻になっていることを知る。高名な詩人が集まるサロンで、彼は自分のかっての恋人への思いを歌ってみせる。詩人達は絶賛するが、社長は出過ぎたマネとあしらい、彼の才能を顧みようとはしない。数日後、今は社長夫人となった彼女が彼の家にやってくる。しかし、ヴィジャイは『僕が君を捨てた訳ではない、君が金を取り、僕を捨てたのだ』とはねつける。そこに、社長が踏み込んできて、ヴィジャイはその場で首になり、また文無しに逆戻りする。

  • ぜーぜー。と、粗筋を書いてみたところで、何が凄いのか、何が良いのか、何も書いたことにはならないんだが。
  • 夜の公園で、歌が聞こえてくれば、それは彼の詩に違いないというのは、もう聞こえてきた瞬間に分かったし、グラーブが彼の姿を見つけられない、見つけても相手にされない、いわゆる『君の名は』みたいなすれ違いのメロドラマだから(実際には『君の名は』なんて見たこと無いんだけどさ)、この辺りまでは、次にどう展開するかは全部分かる。
  • じゃ、つまらないか、というと、その逆で、これが素晴らしい。グル・ダッドが自ら演じる無名の詩人の嘆きと、彼の理解者である娼婦の思慕が、なかなか簡単にかみ合わないのがメロドラマとして気をもまされ引っ張られるのだ。夜の公園で彼女を追いかけるシーンがものすごく見事。とにかく、見せ場になると歌と踊りになるので、盛り上がる。
  • 何となく、100分弱くらいの映画だろうと思いこんでいたので、途中から、時間の経過の割に話が進まなくて、これはどうなるのだ、変だなあ、と言う気がし始める。考えてみれば、インド映画は長いことで有名なのだから、当たり前だが。でも、上映時間が違うと、構成やストーリー展開の力学が全然変わってくる。文法としては、女優のアップの照明(後ろからもライティングして髪の毛が光って後光が差しているみたいな、昔のハリウッドが得意な照明方法)とか、歌と踊りのシーンの移動撮影、引いたり押したり、こうした技法は、ここにもハリウッドがあった!と言う見事な正統的な技術。しかし、演出というか、スクリーンを支配する力学が違うのだ。それは、一つには当然、歌と踊りが要所要所に入るということでもある。喜劇、ミュージカル、悲劇、全てがここでは繰り広げられる。普通、アメリカ映画にはトーンというものがあって、悲劇は悲劇だし、喜劇は喜劇だ。当然、悲劇でも笑いを取る場面というのはあるのだが、何となく最後がどうなりそうなのか、は見当がつくようになっている。この映画は、これがハッピーエンドで終わるのか、悲劇で終わるのか、最後まで分からないようなところがある。各シーンでトーンが違うのだ。マッサージ師が出てくるところは、本当にコメディーのトーンだし、悲劇を予感させるところは本当に悲劇のトーン。これは、グル・ダッドと言うより、インド映画全体の特徴なのではないだろうか?インド映画を余り見ていないので、この辺よく分からないのだが。ちょうど、カレーみたいなもので、何でもあり、混沌がそのままそこにある、と言うインド文化なのではないか?それとも、単なる監督の意図と商業主義の妥協なのだろうか?いずれにしても、2時間半の大衆映画を作ろうと思ったら、何もかも詰め込まないと飽きられてしまうのだ。インドのライフスタイルが、こういうスタイルを要請しているのではないか?

職を失い、再び、ヴィジャイは路上に戻る。そこで、彼はまた警官に追われるグラーブと再会するが、彼は彼女を庇うものの、彼は彼女に興味を示さない。水浴びをする兄弟と出くわし、母が亡くなっていたことを知らされたヴィジャイは、悲嘆に暮れ酒浸りになる。酔った彼は自殺を考える。上着を乞食にくれてやり、彼は電車に飛び込もうとする。しかし、電車にひかれたのは、彼の後を追ってきた乞食の方だった。上着に入っていた詩から、詩人の死が新聞で報道される。新聞を読み悲嘆に暮れたグラーブは全財産をかき集め、詩集を出版させる。詩集は大評判になる。そのころ、ヴィジャイは病院に収容されていた。看護婦の持っていた自分の詩集に驚いた彼は、これは自分の書いた詩だと叫ぶが、頭をやられたと思われ、精神病院に収容されてしまう。出版社の社長が精神病院に呼ばれるが、自殺した悲劇の詩人というヴィジャイの伝説を守るために、彼はこんな男は知らないと言い放ち、さらに彼の兄弟までも買収してしまう。通りがかったマッサージ師の助けを借りて、彼はやっとの事で精神病院から逃亡する。しかし、買収された兄弟は彼を弟とは認めようとしない。彼の一周忌の式典に彼は姿を現す。出版社の社長の偽善に満ちた演説に業を煮やした彼は、『この世を焼き尽くせ!』と怒りを歌う。会場は騒然となり、大混乱に陥る。彼の出現に態度を変えた人々は、彼が本物のヴィジャイであることを説明するために、彼のための集会を開くが、人々の強欲さに辟易した彼は『私は君たちが求めているヴィジャイなどではない!』と言い放つ。会場は再び大混乱に陥る。そして、グラーブの元を訪れ、ヴィジャイは自分の理想が実現される遠い地へと、二人で旅立っていく。

  • と言うのが粗筋。あ〜、疲れた。また、後で続きは書こう。
  • で、風呂入って、一服して、再開。何と言っても、ワヒーダー・ラフマーンの美しさ。この映画で唯一間違っているのは、ヴィジャイがグラーブに一目惚れしないことだ。ドラマツルギーの問題がどうのこうの言っても、そんなもの、全く説得力がない。インド系の美人、凄いねえ。この人、今ならスーパーモデルだね。そういえば、真理アンヌも母親インド人のハーフだそうだけど、あの系統のスーパー・クール・ビューティー。インドの美人って、白人的な顔立ちでもあるし、黒人的な肌の色でもあるし、アジア的なメンタリティーもあるし、インドはインドとしか言いようがない。そもそも、インドはアジアにはあるけど、アジアと思うと間違えること多い。死ぬほどしゃべるし、自己主張するし。でも、文化的にはアジア的な慎みもあったりする。そもそも、超多言語、超多宗教、混沌そのものの国。
  • 兄弟に母親が死んだことを告げられるシーンの最後の逆光のショット、凄いなあ。逆光で表情も何も見えないことで、ヴィジャイが影法師になってしまったようだ。
  • 買収されて『こいつはヴィジャイではない』と存在を否定する兄弟や友人、知人の唖然とする強欲さ。殆ど不条理の世界。
  • 自分の追悼集会に出てきて『この世を焼き尽くせ』と歌う場面は凄い。ロックです。