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今日の名文:帽子 西条八十
母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、 谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。 母さん、あれは好きな帽子でしたよ、 僕はあのときずいぶんくやしかった、 だけど、いきなり風が吹いてきたもんだから。 母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね、 紺の脚絆に手甲をした。 そして拾はうとして、ずいぶん骨折ってくれましたっけね。 けれど、とうとう駄目だった、 なにしろ深い谷で、それに草が 背たけぐらい伸びていたんですもの。 母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう? そのとき傍らに咲いていた車百合の花は もうとうに枯れちゃったでせうね、そして、 秋には、灰色の霧があの丘をこめ、 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが啼いたかも知れませんよ。 母さん、そして、きっと今頃は、今夜あたりは、 あの谷間に、静かに雪がつもっているでせう、 昔、つやつや光った、あの伊太利麦の帽子と、 その裏に僕が書いた Y.S という頭文字を 埋めるように、静かに、寂しく。
今日の名文:あぶない散歩 武田泰淳
その坂道の文房具店で「尼港惨劇カルタ」なるものを買った。買わずにはいられなかった。...「る」のヨミ札には「るすに寂しくヨシコ嬢」とあったのだけを記憶している。トリ札には、その地の領事か何かであった父と母を殺された少女が、羽織はかまで描かれていた。
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- 今晩うなされます。
小学校の戻りに墓地の外側につながれている馬に咬まれた。
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- 馬って、あの馬ですか?
女房は、まるっきり寺住の生活には無知であった。しかし彼女はすぐさま環境に馴れて、それを克服したばかりか、突破しそうになった。「あたし、女学校の時に般若心境を覚えさせられたから大丈夫よ」と自信満々だった。習字がうまいのだといって塔婆の文字もさっさと引き受けた。キリスト教の塔婆(それを発明したのは彼女が初めてだろう)には、てっぺんに十字架の形を墨で描いた。森永キャラメルの箱を手本にし、天使の像をその十字架の上にとまらせたのである。
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- 先生、突破してます!