golgo1392004-11-07

『山猫』・ルキノ・ヴィスコンティー監督作品・1963年・伊&仏・イタリア語完全復元版
 冒頭のシーン、壁沿いにカメラが動きいつの間にかお祈りをあげている部屋の中に入っていくところから、もうたまらない。お祈りの声に混じりどこかから騒ぎ声が次第に大きくなってくる。祈りをあげていた人たちの注意はそちらに次第に惹かれて落ち着かなくなってくる。この音の使い方。庭からの騒ぎとともに一通の手紙と新聞が時代の鳴動を運び込んできて、祈りの静寂な時間は打ち破られる。大時代な公爵夫人の嘆きとともに人々は俄にあわてふためき始める。そして、そこへ若々しい一陣の風のような若者が飛び込んでくる。公爵の甥は革命軍に参加するという。屋敷の人々に別れを告げ、彼は旅立っていく。ここの屋敷の人々へのバルコニーでの挨拶のきびきびとした躍動感がたまらない。そして馬車がでるところ、カメラワークと言い、見送る公爵の娘、公爵達の構図、全く無駄がない。あっという間に巻き込まれてしまう。
 それから、公爵は革命軍が跋扈しているというのに浮気に行くんだけど、あの娼婦がクラウディアタイプ?だったような?この辺の神経というか、感覚、価値観というか、もう生き方が公爵様という感じ。次の日、牧師さんにお説教されるがまるで取り合わない。あの部屋に幾つもあったでかい望遠鏡は何なのだろう?気になる。
 ガリバルディの赤シャツ隊の戦闘群衆シーンの凄いこと。あれは全部指示がでているのだろうけど、一つの画面の中でいくつもの動きや事件が進行する。その見事さ、華麗さ。これは、全編通して言えるのだが、あの群衆シーンはどこを見ればいいのか分からない(=どこを見ていても良い、ということだが)、何か見逃しそうで必死になるのは貧乏人!としみじみ思い知らされるあの豊かな豊かな群衆シーン。”群衆”を撮るのは誰でもできるけど、それは只沢山人がいると言うだけのこと。ポチョムキンみたいな群衆シーンとは全然違う。そのまま全てを見せるという、あちらこちらで出来事が浮かび上がる泡のように生起してははじけて消えていく、その流れを見せる。ちょうどこれはヨーロッパの群像画などと同じ事なのだと思う。だからさも当たり前にこれをやってしまっているが、こんなことする人、できる人って、他にすぐ思いつかない。
 そうこうするうちにシチリアの別荘にみんなで移動し始める。あのシーツを広げるところからやるのが良い。さあ、これからやって来るという感じがでる。途中関所を開けさせるところも、甥っ子のしたたかさ、やり手ぶりがでていて良い。あそこの広場の遠景も、広々とした野原に関所を強引に設けていると言う理不尽さが出ていて良い。別荘到着のところも良い。延々とやるのが良い。そう、延々とやるのが良いのだ。全部本物だからできる、見ていて面白いのだけど。
 甥っ子の眼帯というか、布を巻き付けているのだが、あれが格好良い。腕を吊ってるのではなんだか情けないし、杖では全く様にならない。傷が付いているのでは、美しくない。一番優雅な負傷に見える。
 祝宴でのアンジェリカの止まらない大笑い。あれはちょっとやりすぎかな、と言う気もしたが、さすが成金のお嬢様の芯の図太さがこの辺りからでているのも確か。イタリア娘はあんなものか。甥っ子の話がそもそも悪いのだが、あれは食事の席に並んでいる旧世代への若者のあえて挑発と言う大胆さがでている。我々は新世代だという契約が結ばれる瞬間。
 国民投票のところ、赤は赤ワイン(ロゼかな?ひょっとして、チンザノ?)、白は白ワイン、だろうけど緑は何なのだろう?思いつき自体は、悪趣味とまでは言えないだろうけど、公爵の気持ちを何も理解していないのは明らか。まあ、庶民のお祭り騒ぎという感じがでてると言うことか。庶民的には、ちょっと心惹かれた、三色飲んでみたい。
 それから、あの政府の使者とのやりとり、この辺から公爵の内面の語りが増えてくる。退廃、滅び行く旧世代、過去のイタリア(ではなく、イタリア以前というのが正しいと思うが)。
舞踏会のあたりについてはまた後で続きを書こう、延々と、うだうだと。

と言う訳で、翌日ですが、うだうだ書きます。
 公爵の娘さんも途中までは綺麗に撮られているのだけど、アンジェリカが大笑いする祝宴の辺りからだんだん愚図っぽく見えてくる。野原で水を飲む辺りは本当に美人に撮られているのだけど、だんだん頭が悪そう、近親婚の一族に見えてくる。これはもう演出、そう撮っているのだとしか思えない。ここの残酷さがヴィスコンティーらしい。
 狩りにお供する家来も良い。あの熱血漢の忠臣がいることで、公爵様の複雑さ、悩みが対照されて見事に浮き上がる。ちょっとしたシーンだけどあの斜面が画面に凄く立体的な効果を与えている。
 そう言えば、使者との会話の中で、『公爵様は科学にも造詣深く、』と言うせりふがあったから、あの望遠鏡は天文観測していたのだろうか?星の移ろいを眺める、と言うのもいかにもあの公爵らしい。
 最後の舞踏会も一つ一つのシーンの人物描写があまりに鮮やか。軍人達の大言壮語のこれ見よがしの誇張の馬鹿馬鹿しさ、お嬢様達のお猿さんぶり、成金男爵の下品さ、これがセリフが2,3のシーンで的確に描かれるその手際の見事さ。アンジェリカが公爵にダンスを申し込むシーンの微妙な機微。そうしたシーンを通じて、公爵の居場所の無さが一つ一つ浮き上がってくる。それと裏腹に華やかに繰り広げられる舞踏が、華麗な背景を織りなす。三角関係のシーンでも、大笑いのシーンもそうだったけど、野心的で新世代の人間である甥っ子の、若々しく華麗で美しくありながら、貴族でありながら、浪費家の親に残された没落貴族、あけすけな話や身も蓋もない上昇志向をためらうことのないしたたかさ、がいかにもアラン・ドロンのはまり役とつくづく思う。舞踏会の終わりの気が狂ったようなスピードの踊りが、何とも言えぬ宴の終わりの哀感を醸し出している。そして、上院議員に立候補するという甥っ子の言葉を、ああ分かっていたよ、と受け流し一人歩き去る公爵。帰りの夜道で神父が前を横切る。臨終に呼ばれたのだろう。跪き、明日の自分の死を思いながら十字を切り、暗い路地に消えていく。FIN。
 公爵は非常に理知的、理知的とはどういう事かというと、現実を曇りなく正しく見、正しく判断する、ちょうど望遠鏡で星の運行を観察するように。そして、彼は自分の星が地平線の下に隠れようとしていることを理解している。しかし、そこで取り乱したり、自分の生き方を変えようとはしない。そういう人間の生き方に我々は深く感動し、深い敬意を覚えずにはいられない。

 大体、思ったことは書いたが、後、撮影と音楽についても書きたい。今回の復元はジュゼッペ・ロトンノだけど、これが現在の技術でも復元出来る限界なのかなあ。テクニカラーって、オリジナルはもっともっと綺麗な色だったんじゃないだろうか?撮影もいうこと無し以上だけど、カメラの緩やかな移動、立体的な構図、画面サイズをフルに使い切る美術の見事さ。もう2度とこんな本物は作られることはないだろう。
 ニーノ・ロータは、やはりヴィスコンティーには本当はちょっと軽いのではないか?と言う気がする。

 ああ、書きたいこと全部書いたらすっきりした。