「未来のモノのデザイン」:ドナルド・A・ノーマン

未来のモノのデザイン

未来のモノのデザイン

 相変わらず、Personalization =「個人化」技術というのが、コンピューター・サイエンスの分野では、一つの目標として語られるが、私はあれが大嫌いだ。携帯電話でGPS情報と連動して近くのお勧めの店を教えてくれるという類の技術だ。あんなもの、役にも立たないし、使いたくもない、と思っている。人間の趣味嗜好というのは気まぐれなものだし、たまにはあれを食べたいとか、これは嫌いだけどあそこの店は別とか、いつもは食べないが今日はたまには良いかなとか、そういうものじゃないのかと思う。
 そういう声に反応して、最近「セレンディピティ」という言葉が良く言われる。これは偶然の出会いとか偶然を見逃さずに気づく能力ということだ。でも、これもなんだかいかにも理系、理系した発想のような気がする。だから、理系って嫌なんだ。機械による推定による推薦に限界があると言われれば、ランダム、と考えるのって、余りに単純だ。理科系って本当に頭が悪いな、と嫌になる。
 何故、普通に、人に聞こうとか、ガイドブックを読もう、と考えないのか?なんで、お前の作ったプログラムなんかにお伺い立てなければいけないのか?何故、そんなにコミュニケーションしたくないのか?何故、誰かが調べたガイドブックではなくて、どこかから持ってきたデータを調べなければいけないのか?


 現在の機械はどんどん複雑化し高機能化するにつれ、人間の入力に対するフィードバックが必要になってきた。そして、技術的にもそれがどんどん可能になってきた。複雑な機械を操作しようとすれば、機械の状態を確認しながら、プロセスを進めるために、我々は機械とインタラクティブなやりとりをしなければいけない。しかし、実際には、それは非常に煩わしいものになりがちだ。PCとか、Windowsのことを考えれば、そうした経験は誰にもあるだろう。
 そうした煩わしさを軽減するための機械のインテリジェント化というのが、いかに難しく、おかしなものになりがちか、そして、この問題を解決するためには、機械はどのようにデザインされるべきか、と言うことを論じたこの本を読んでいると、思わず、「そうだ、その通りだ!」と膝を叩きたくなる。ユーモアに溢れたトリッキーな語り口に思わず引き込まれた。
 その語り口を読みながら思ったのは、こうしたコミュニケーション・デザインというのは、才能とかスキルとかArt=技術という領分の話であって、Technology=技術の領分の話ではないということだ。だから、法則や定理をこの分野で決めることは出来ない。もちろん、色々とコツとか鉄則もあるだろう。しかし、こうすれば絶対うまくいくという方法はない。


 それをTechnology=技術で解決できると思っているPersonalization =「個人化」技術の傲慢さと視野の偏狭さが私は大嫌いだ。むしろ、それは人間と人間のコミュニケーションである方が遙かに面白い。
 Twitterでフォロワーが多い人なら、「今、東京駅だけど、なんかおいしい店ないかな。」と呟けば、きっと、すぐに答えが返ってくるだろう。ブログを回っていれば、この本は面白そうだ、とか、この人が良いと言っているのだからこの音楽を聴いてみよう、などと思うだろう。そういうSocialization=社会化の方がよっぽど面白いし、楽しいと思うのだが、やっぱり、理科系はPersonalization=個人化の方が好きなんだろうか。ああ、理系って嫌だ。一応、元理系だけど。


 この本の最後には、こんなデザインルールが上げられている。これが上手いのは、エンジニアではなく機械との対話という冗談じみたSFの設定をすることで、エンジニアに「こうしろ!」というのではなく、「ふむふむ、こうしてやればいいのか。」と上から目線で話を読ませるところだ。最後の「人間の振る舞いを決して「エラー」とは呼ばない」と言うルールそのままだ。私のように罵倒したがらないところが、さすが、大人だ。

「賢い」機械をデザインする人間のデザイナーのためのデザインルール
1 豊かで複合的で自然なシグナルを与えること。
2 予測可能であること。
3 良い概念モデルを与えること。
4 結果が理解可能であること。
5 煩わしくなく、連続的な気づきをもたらすこと。
6 自然なマッピングを活用すること。


機械によって作られた、人間とのインタラクションを改善するデザインルール
1 ものごとを簡潔にする。
2 人間には概念モデルを与える。
3 理由を示す。
4 人間が制御していると思わせる。
5 絶えず安心させる。
6 人間の振る舞いを決して「エラー」とは呼ばない。(人間のインタビュアーによって追加されたルール)