「女になりたがる男たち」: エリック・ゼムール

女になりたがる男たち (新潮新書)

女になりたがる男たち (新潮新書)

 読了。帯には、

フェミニズムが世界を滅ぼす。
フランス人女性を激怒させた問題の書、ついに日本上陸!
(本文から)
男が自らの内なる「女性性」を解放するよう、社会全体が声を揃えて要求した。男たちは「普通の女になる」という壮大な計画の実現のため、全力をつくすようになった。(中略)男たちは古びた本能を捨て去らねばならない。女は単なる性別ではなく、ひとつの理想となったのだから。

これに釣られて、面白そうなので読んでみた。著者はパリ政治学院卒の政治ジャーナリスト。
 論旨をまとめると、こういうことだろうか。今や、メディアの喧伝するイメージがフェミニズムをフランス社会の基本的な価値観として定着させてしまい、グラマラスなイメージは男女ともに受けなくなり、中性的なイメージが支配的になってしまった。愛と欲望の乖離をアンモラルと断じる女性的な倫理観を欺瞞としか思えないマッチョな男たちは、欲望の捌け口を倒錯に求めるしかなくなっていさえする。特に、戦後生まれのベビーブーマー世代は父権に伴う責任の重さが報われないものと見抜いていたので、自ら進んで責任を放棄しさえするようになり、女性の優位性がますます確固たるものとなっていった。こうして、男はどんどん無責任になり、女は子供を抱えたまま取り残されるようになった。出生率も低下し、労働力が不足した結果、どんどん移民がやってくるようになる。その結果、アラブ系移民はフランス社会のタブーともいえるアラブ系移民を抱え込むことになってしまった。経済的にも、女性を社会進出させれば、企業は男性の賃金を低く抑えることが出来るので、女性の社会進出はどんどん進み、その結果、家庭は崩壊した。結局、女は男になれた訳ではないが、男は男たる責任を放棄したままだ。今後、どうすればいいのか、何も答はない。
 という話なんだけど、「じゃ、いいじゃん、それで。それで良いと言うことにすれば、答なんていらないでしょ。」と、私なんか思ってしまうが。責任を求められることはしない、という以外なんの責任もとらない、と言うのが基本ポリシーだから。
 読み終わっての第一印象は、なんか居酒屋でするような話だなあ、ということだ。「男は」というときの「男」って誰なのか?一般名詞で語られる話の説得力の有無を決めるのは、どれだけ実感に支えられた共感を得られるかと言うことだ。そこでは、データは問われない。最後の方では、アラブ系移民の問題を扱っていたけど、後書きでも指摘されているようにこの点に関しては、そもそもデータがないんだそうだ。「フェミニズムの誕生以降に何が起こったのか、我々男がどう変わったのかを理解するのがこの本の目的だ」というけど、話はぽんぽん飛ぶし、学者じゃなくてジャーナリストの書いた本だなあ、という感じ。
 出てくるいろんな話が、フランスのインテリでジャーナリストの人らしく、下品で面白い。ジェニファー・ロペスの大きなお尻が好きなのは一般大衆だけだ、とか、昔は良かった、イブ・モンタンなんか、後から名乗り出てきた隠し子のDNA判定のために墓から掘り起こされたというのに、とか、まあ、そういわんばかりな話が出てくる。これでベストセラーになったみたいだから、商売的には成功なんだろうけど。
 意外だったのは、フランス人がこれを嘆いていると言うことだ。どう考えても、フランスにはマッチョなイメージないんだけど。スポーツだって、自転車位しか強そうなものないし。サッカーだって、移民でもってるし。戦争弱いし。根性無いのに、言い訳だけはすごく上手そうだし。大体、この本だって、論理的に展開していくと言うよりは、あれこれとやたら色々な具体的な話が次から次へとポンポン出てきて、典型的な女のお喋りなんだけどな。
 女が男に向かって平気で「かわいい」と言うし、男もそれを喜んだりする日本から見ると、フランスって遅れてる、と思う。こういう社会から見ると、日本のアニメとかマンガって、ものすごいカルチャー・ショックかもしれんなあ。
 何故、フェミニズムが唱えられなければならなかったか、と言う歴史的な認識がこの本には全くない。それは仮に良いとしても、では今後男と女の役割は如何にあるべきか?という真摯な探求もここにはない。その結果、昔は良かった、と言う思索の放棄としての反動的な言説のみが述べられる。しかし、それは近視眼的な実感とは一致するので、それなりの支持を得ることは容易だ。ほ〜、これが反動というものか。