「ドント・ルック・バック」: ボブ・ディラン

 昨日はこれを見ながら寝てしまった。1965年5月のイギリスツアーのドキュメンタリー。これは傑作。ディラン、かっこいい。何なのだ、このかっこよさ。
 あんまり、ライブのシーンは多くない。バックステージの様子や、インタビューの様子がほとんどなんだけど、その23歳のディランの生意気なはぐらかし方がもう絶妙。決して、まともにインタビューに答えようとしない。
 冒頭の歌詞の単語を書いた紙を無造作にめくり続けるディランの素っ気ない表情からして、もう何ともいえない。なんで、曲に合わせて歌詞の単語を書いた紙をめくり続けなければいけないのか?どういう意味なんだ?と聞いたら、負けというルールのゲームがボブ・ディランなんだと思う。すごく意地悪で狡いゲームだ、これは。だって、このゲームにボブ・ディランの負けはないから。いや、そうじゃないな。何故?と誰も聞かなかったら、ディランの負けなのかもしれない。
 要は、「俺の言っていることを理解しろ、この詩を理解しろ」なんて、ディランは言っちゃいないということだ。「これ気に入った?」としか、ディランは聞かないだろう。二者択一で、理屈や意味じゃなくて、ただ彼の歌が好きか嫌いか、ということだ。ディランはディランの歌いたい歌を歌う。それがディランの自由だ。そして、我々は彼の歌が好きなら聞くし、好きじゃなければ聞かない。それは我々の自由だ。「別に好きじゃなければ聞いてくれなくて構わないんだ」というのは、相手にも自由を認めるし、自分が好きなことを歌う自由を主張しているということだ。その自由の契約が、ボブ・ディランなのだと思う。
 これは、当たり前のようで、当たり前じゃなかった。この映画の中でディランも「俺の音楽はエンターテイメントなんだ」と言っているけど、エンターテイメントというのは結局娯楽を提供するサービスで、御客さまに娯楽を売るのだから、媚というのが当然あるわけだ。でも、媚を売らない姿勢というのも、エンターテイメントの枠組みの中でやり方としてある、と最初に気づいたのが、ディランなんだなあ、と思った。「何を言っているのか分からない」とか「どういう意味があるのか分からない」という新しいものへの永遠の最高の褒め言葉があるけれど(笑)、それを最初にやって見せたのがディランだったんだなあ。
 それがエンターテイメントとして成立してしまうこともあるし(この映画みたいに)、それがポーズと取られることだってあるのかもしれないけれど、だからどうだって言うんだ?言わせておくさ、俺は俺のやりたいようにやるだけさ、という完全な確信犯ぶりが何ともかっこいい。演技しているという意識が全くないという天然な人じゃなくて、完全な確信犯で戦略的に思った通りに振る舞っているという感じ。そこの頭の良さが、嫌だといえば嫌になる。
 まあ、ディランはそれなりに聞いてはいるけれど、やっぱり、何となく消化しきれないというか、自分の血肉にはなっていないなあ、という感じはずーっと持っていたんだけど、これを見て、少し、近づけたのかなあ、と思った。最近はみうらじゅん以来、ディラン再評価みたいな感じになっているけれど、そこのところ、自分的には何時までも近づきたいけど近づけない人みたいなイメージをディランに対しては持っているので、うらやましいというか、なんか嘘くさいよなあ、という気持ちをどうしてもこれまで持っていた。ああいう歌い方が彼の歌い方なんだけど、カバーを聞いて「アッ、こんな綺麗なメロディーの曲だったんだ」と思うことも、正直、無いではない。それより何より、なんだか、勘所を掴み切れていないなあ、という感じがずっとあった。多分、この映画の時代にリアルタイムでボブ・ディランを「事件」として経験しているかどうか、という事なんだと思う。
 その意味で、このDVDは、ボブ・ディランという事件は何だったのか、という素晴らしい記録になっていると思う。でも、2700人で満員なんて会場でやってたんだね。。。うらやましすぎ。