『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン(5)』

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻 (ビームコミックス)

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻 (ビームコミックス)

 後少しというところまで来た。もう、茫然とするしかない圧倒的な迫力。ここまで暴力を真正面から書いて、良くこれだけ続けることができたなあ。自主規制とか打ち切りとか、そういうことに追い込まれてもおかしくないくらいグロい描写がこれだけ続くんだから。いずれにしても、これは本当にすごい。
 といっても、すごい、すごい、と言ってるばかりでは、何のことやらわからないが、本当にすごいんだから仕方がない。仕方ないから、もう思いつくままに書く。
 トシモンの前半生が最後に出てくるというのも、唖然。ここまで分厚いの4巻半分の話をやって、最後に申し訳のようにこれが出てくるって、あり得ない。普通、途中真ん中あたりで説明されてても良さそうなものだ。こういうこと説明する暇がここまでなかったという、まるでヒグマドンのような突進力のストーリー展開。トシが掴まった辺りで未完にしても良かったんじゃないかな、と言う気もする。
 5巻の巻頭の作者インタビューでは、いろいろ言っているけど、やはり、(ここで一度中断)なんだっけ、そうそう、何を言っても、これはトシモンを単純に否定すべき存在としては描いていない。肯定しようもないけど。「悪」とか「暴力」がこの世の中には、人間の中には存在する。罰されなければならないし、憎まれてしかるべきだが、「悪」は存在する。これは、由利総理大臣のセリフの「人を殺してはいけない理由なんかないが、それを罰するのが大人だ、理屈じゃなく、怒り、罰さなければイカン」というのと同じリアリズムの裏返しかもしれない。
 とにかく、「悪」は存在する。しかし、今の世の中はそんなものは存在しないかのように目を背け、「悪」が露呈すればそれを”罰せ”というのではなく、”抹消せよ”という。誰も本気で「悪」を罰する責任など取ろうとしないからだ。しかし、「悪」は存在する。それを認めるところからスタートしているところに、TWIMの倫理性があると思う。
 別の切り口で言うと、ヒグマドンが大暴れして人を殺すのと、トシモンが人を殺すのは、どう違うのか。殺される人間にしてみればどうなのか?ヒグマドンに出会うまでのモンちゃんはヒグマドンと同じような存在だったのか?ヒグマドンとモンちゃんが何か?というのは、問うても意味はないのかもしれない。それは意味より先にある存在なのだから。
 もし、深作欣二がこれを映画化することができたら、飯島さんを自分で演じて欲しかったなあ。飯島さんとか、脇役が良いんだよなあ、これ。