年賀状を書いているうちに気になってきて、調べると、暦っていろいろありますな。西暦も、正式にはグレゴリオ暦でCaesarが作った物が元。Wikipediaで調べると、「お化け歴」なんて物まであった。当然のことながら、暦というのは政治的な覇権の証。西暦が世界中で使われている訳でもない。日本だって元号がある訳だし、イスラムにはヒジュラ暦などがある。
 実用的には世界中で共通の基準がないと不便ではあるし、インターネットで世界中が共時的に繋がった今となっては、個別の時間が存在するのは不便だから統一しろ、という方向の議論になりがちだと思う。しかし、これだけ技術が進歩すればその変換など微々たる問題なのだから、世界歴(結局西暦になるわけだが)と地域歴を並立させることも意味があることなのかな、と言う気もする。
 これは、全ての標準化につきまとう問題ではある。共通であることの経済的なメリットと独自であることの文化的なメリットは、一致しない。必ずどこかで矛盾が生じる。それは常に経済と文化の戦いになる。必ず勝つのは経済である。そして、標準を握る経済的勝者が、文化的にも抑圧を行う側に立つことになる。
 耐え難いのは、勝者の側の文化の傲慢と無神経だ。多分、大多数のアメリカ人は西暦以外の暦など、そんな物が存在することすら知らないだろう。めんどくさいから、そんな物何故廃止しないのか?位は平気で言うと思う。イギリス人はそこまで言わないかもしれないが、統一のメリットくらいは言うと思う。もっとも、西暦以外のどんな暦だって、それは何らかの政治的な淘汰を経てきた物だろう。
 じゃあどの暦が使われるべきなのか?まず、ここで出てくるのが、科学的に合理的なのがこれだから(多分西暦)、これを世界中で使えばいいという議論。世界標準時としては、多分それで良いのかもしれない。でも、何故1月1日が冬のこの日でなければいけないのか?と言えば、そこには幾分かの文化的な恣意性は入らざるを得ないはずだ。科学が文化的に誤謬を含まない物となり得る、というのは幻想だと思う。エスペラント語の夢とこの議論は似ている。人工的な何かがユニバーサルな物となり得るのか?そこまでして一つの世界標準が必要なのか?技術というのは、すべからく標準のような合理性に供するべき物なのか?多様性を可能にするための技術という物があっても然るべきだし、そうした物もいろいろあるだろうが、昨今のグローバル経済は常に多様性を抑圧する技術を選択する。これは善し悪しの問題ではなく合理性の問題だという名目の元に、多様性は排除されていく。
 とはいえど、そのグローバル化・標準化が全てという訳でもない。現に今も、讃岐の地酒を正月らしく昼間から飲んでいる訳で、こうした地域性というのが逆に商品価値を持つことだって多々ある。しかし、それはやはり商品という経済の場での戦いだ。文化が経済に勝った訳ではない。同じ土俵に引きずり出されたという意味では、こうした地域のブランド化というのも、地域の文化の国規模の経済に対する敗北ですらあり得るのだ。特に、こうした地域のブランド化では全ての地域が勝者になれる訳ではないので、むしろ、地域と地域のグローバルな競争の加速になることが多いだろう。
 これを良しとするのかどうかは、詮ずる所、競争を良しとするかどうかということだ。勿論、競争というのは不可避な物である。レセフェールというのだって、勝てると思っているからあえて手を汚さない、という政治的戦略だ。競争を禁止するというのと同じくらい政治的な選択だ。多分、政治が文化の側に立つと言うことは、最終的には余りないだろう。しばしば、文化は国内に限定された問題であり、経済は対外的な競争の問題だから、政治的には自国のためには対外的な優位性の追求を優先せざるを得ないからだ。しかし、これは本当にそうだろうか?文化を持って対外的な”力”とすることは不可能だろうか?いや、それはむしろ、文化的な帝国主義とでも言うべき物になるだろう。負け惜しみの強いフランスやギリシャのような。
 所詮、地域や国のような集団を単位とした問題は競争に落ち着く。そうした集団とは外部に対する境界として作られるからだ。こうした集団や地域が常に文化と一体の物であるのも事実だが、その文化が政治的もしくは経済的集団に帰属する限りは、文化は政治や経済に翻弄されざるを得ない。文化や価値が唯一のかけがえのない物であると本当に主張出来るのは、ただ個人の名においてではないのか。
 ああ、飲み過ぎかな。
暦法 - Wikipedia
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ヒジュラ暦 - Wikipedia