第6回東京フィルメックス:『スリー・タイムズ(仮題』)

東京フィルメックス公式HP:TOKYO FILMeX

Taiwan/2005/139min.
監督: ホウ・シャオシェン侯孝賢
出演: スー・チーチャン・チェン、メイ・ファン
配給: プレノン・アッシュ (2006公開予定)

 後でゆっくり書こう。でもやっぱり、一番最初の『恋愛夢』が抜群に良かった。やはり、こういう戦後と青春が彼に一番ぴったり来る舞台なのだなあ。


 と言う訳で、風呂にも入ってさっぱりしたし、酒も肴も準備できたのでじっくり書くのだ。
 まず、こうして、第6回を迎えたというのが素晴らしい。3回位までなら、運だけでも何とかなるのかもしれないけど、早6回。林ディレクターの顔も覚えてしまったなあ。今日は、「この映画祭の誇ることは3つ。一つ、リッチなプログラム、二つ、海外とのネットワーク、三つ、素晴らしい観客の皆さん」と仰有っていたけど、四つ、根性のあるスタッフの皆様、と付け加えさせていただきたい。やはり、アジア中心で、観客のための映画祭、と言うコンセプトが良い。
 で、侯孝賢。これは三部構成で、それぞれ別の時代の話なんだけど、同じ男女の俳優が演じるという趣向。上映後の監督との質疑応答で言っていたけど、最初は、オムニバスで3話それぞれを別の監督が担当するという企画だったらしい。侯孝賢自身は最初の1966年の物語だけ監督する予定だったらしい。でも、企画をあちこち持っていったけど、GIO(台湾の新聞?新聞などの報道の所管官庁?)と言うところかな、もう一つなんか言ってたな、たかが予算3000万円で、当たらなかったら最大その1割まで監督が補填しろ、と言う条件を出されて頭にきて、全部自分ですることにしたらしい。こういうところって、台湾は韓国よりもビジネスライクなんだよね。韓国の方が、野心で夢持って大博打打ってくる。台湾は、まずビジネスで、見込みがなかったら、すぱっと見切り付けてやらない。侯孝賢に3千万で映画を撮れ?馬鹿言ってるんじゃネエよ。
 その後の話も、何か大変そうな話ばかり。最初に撮ったのが、2005年パート。次に撮ったのが1911年パート。最後に撮ったのが1966年パート。でも、順番は、1966年、1911年、2005年。2,1,3ってどうして?みんな不思議だった。誰も聞いてくれなかったら蛮勇奮って挙手するしかないか、と思い詰めていたら(詰めてどうするんだっつうの)、そこを質問してくれた人がいてホッとした。で、どうしてかというと、最初の2005年で結構時間使っちゃったみたい。1911年が12日、1966年が6,7日(?曖昧でごめんなさい)くらいで取り上げてしまったらしい。何でも、女優さんがその後に誰だったか、日本の監督(行定?)との撮影の予定が入っていたらしい。お客さんを放さないようにするために、一番出来の良かった部分から、並べたからこうなった、と言うのが、爽快なまでに身も蓋もない監督当人の弁。「映画というのは、現実的な理由で動いていて、皆さんが思うような立派な理由では決まっちゃいないんだよね」という侯孝賢監督のコメントが面白かった。1911年も、役者さんが昔の言葉をちゃんと練習する時間がなかったから、サイレント形式にするしかなかったんだ。と言っていた……。
 だけど、一番良いのは、誰が見ても、1966年。これは否定できない事実。一番短い期間で最後に撮った、と言うことは、これは最初から自分でやろうと思っていたと言うことは、やはり、これが自信も持っているし、彼がやりたいことなのだと思う。それが6日間の撮影。俳優が馴れてきたから、と言うが、それだけで、あれがそう易々と出来るものではないと思う。でも、ステレオタイプを求めてしまうことも、当人にしてみれば辛いというのもわかる。また、今の台湾の情勢の中で、大陸との経済交流が深まる一方で、中国の国威伸張に伴い微妙な位置取りの模索が続く現在、彼くらい国際的に注目される立場の監督の作品が容易であるはずもない。
 舞台はビリヤード場。新しい女の子がやってくる。台湾のこの頃のビリヤード場って、雀荘みたいにフリーできても店員が相手してくれる様になっていたみたい。その相手してくれる新しい店員の女の子がやってくる。前の子がすれ違いで去ってゆく。その子を追いかけて青年がやってくる。「もういないわ。」「そうか。」青年はしばらく球を打ってゆく。店の机を開けると、前の女の子宛の手紙。また、青年はやってくる。そして、兵役で彼は去ってゆく。彼から彼女に手紙が届く。休暇で彼がやってくると、もう彼女はいない。彼女を彼は捜し歩く。休暇がもう終わりになると言う寸前で彼は彼女を捜し当てる。「探したよ。」ほほえむ彼女。「何時まで?」食事をする。何を話すでもない。ただ二人で一緒にいるだけ。それだけで、もう電車はない。二人でバスがくるのを待つ。一つ傘の下で、青年は彼女の手を握る。
 これだけの話。それが、何故こんなにせつないのか。彼女は彼が前の店員の女の子にも手紙を送っていたのを知っている。だからなのか、店を去る。でも、彼は自分を捜してやってくる。彼女はそのことを口にもしない。彼は孤独で寂しいだけなのかもしれない。でも、こうして私を捜してきてくれたのだから、うれしい。素直にうれしい。彼は彼女が前の店員に自分が出した手紙を読んでいるなんて想像もしないだろう。でも、そのときはそうだったし、今は今なのだ。今だけが真実なのだ。青春という季節には、浅はかさよりも遙かに重要なものがあるのだ。なあんて、こと、もうすっかり忘れていたよ。
 たわいもないどこにでもある全ての人のあの頃の物語を、侯孝賢は、店の奥から逆光の中撮り続ける。南国台湾。打ち放しのコンクリートギリシャの青と白にもどこか似ていて、それでいて、どこか憂いを混ぜたような緑の扉と白い壁。外には眩しい光が溢れている。鬱屈した思いを抱えた人々は、日差しを避けるかのように、眩しそうにビリヤード場に昼間からやってくる。その屋外の眩しさと共に、当人は気づきもしない若さの眩しさを、逆光の中に侯孝賢は言葉少なくすべて捉えてみせる。そして、そのどこにも有りはしなかったかもしれない一瞬が、一つの世界として永遠に肯定される。
 このパートの彼女が池上季美子っぽいんだよね。なんか、それが個人的に昔のTVドラマとシンクロして懐かしかった。この部分はビクトル・エリセの"10 minutes older"の短編に匹敵する傑作だと思う。それにしても、短編でしか、この二人を比べられないなんて、……。あまりに理不尽だと思う。たかが10億あれば、二人ともやりたいように映画一本撮らせてあげられるのに。