「流れる」1956年・監督 成瀬巳喜男
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2005-09-10/nittei.html
116分・35mm・白黒
落ちぶれかかった柳橋の置屋に暮らす芸者たちの哀歓を、この上なく豪華な女優陣によって綴った大作。人物の視線の交わしあいにストーリーを語らせる成瀬演出が冴え渡るが、大ベテラン栗島すみ子だけは現場でも監督を「巳喜ちゃん」と呼んではばからなかった。
’56(東宝)(原)幸田文(脚)田中澄江、井手俊郎(撮)玉井正夫(美)中古智(音)齊藤一郎(出)田中絹代、山田五十鈴、郄峰秀子、岡田茉莉子、杉村春子、栗島すみ子、中北千枝子、賀原夏子、宮口精二、加東大介、中村伸郎、音羽久米子
久しぶりに見たけど、これはやはり傑作だなあ。超豪華なこのキャスト。しかもみんなそれが絶妙なはまり役。それで劇的なストーリーにならないというところが、なんとも成瀬らしい。たいした事件と言うほどの大事件もないのだけれど、そこは落ち目の芸者の置屋であれこれ心配事には事欠かない。逃げ出した芸者のオヤジがノコギリ山から恐喝しに来るとか、借金で首が回らず恥を忍んで昔の愛人のセンセイを頼りにしようとしてもつれなくされてしまう、とか、そんな話が何故こんなに素晴らしいのか?
田中絹代が職安から女中として紹介されてくるところから映画は始まるのだけれど、この田中絹代の女中さんの真面目さがいい。もはや、今の日本にはこんな真面目さはどこにもない。女中さんも絶滅してしまった。いるのはメイドさんだけ。つい十年くらい前までは、世界に悪評高いくらいだった日本人の真面目さは、もはや、過去のものという感があるなあ。この女だけの家にあって、唯一の正真正銘の素人(子供は別)という微妙な立場なのだけれど、ここをでても田舎に帰れる訳でもない。頼りになる身寄りがある訳でもない。本名は梨花と芸者さんより粋な名前なのだけれど、呼びにくいからと「お春さん」にされてしまう。彼女だけが、郄峰秀子のお嬢さんと心を許して話し合える。
山田五十鈴の置屋のおかみさんも、なんともやるせない。栗島すみ子の姉貴分の料理屋の女将さんのように世渡りができるでなし、お金目当てで旦那をつかまえることもできはしない。娘の高峰秀子も父親のことはよく知らないようだ。
それにしても、この映画の岡田茉莉子様は、いつにもまして美しい。この映画の茉莉子様はちょっとすごい。まさに、こういう人を「シャン」と言っていたのか、という感じ。回りがおばさんだからそう見える訳ではないが、若さとモダンさが、この時代に遅れつつある置屋の世界の中で、一輪花開いているという感じ。
杉村春子も素晴らしい。映画を、要所要所で締めたり緩めたりしている。最後の高峰秀子に、男知らなくて何がわかるのさっ!という場面の、この女だけの不思議な空間に亀裂を入れる辺りの芝居は絶妙。男もいないし、お座敷も出てこないこの女だけの不思議な空間の政治的力学。田中絹代も山田五十鈴も、どうしようもないとわかっているから何も言えない、という空気が支配しているこの空間に、すぱっと割れ目を入れてみせるあのシーン、名演です。
この家の中や路地のゴミゴミした感じや奥行き感も、その場の感覚が伝わってくるようで素晴らしい。
高峰秀子の上に田中絹代と山田五十鈴が来るんだから、これは超豪華なキャストだなあ。でも、これは大人の映画だねえ。悲しいね、とか、楽しいね、じゃなくて、そうだよねえ、やるせないねえ、と思えるかどうか、共感できるかどうか?という映画なんだから。それが分からない人には、成瀬巳喜男ってピンとこないんだと思う。若い人の見る映画じゃないなあ、と思った。若い人も一杯いたけど、10年後にもう一度見て欲しいなあ。
じゃ、頑張ればいいじゃないの、といったら、お終い。それがわからない世の中だから、鬱病の人にさえ「頑張れ」と言って自殺させてしまう、こんな御当世。今、こういう映画を見ることってすごく貴重なことだと思う。というと、すぐ「癒し」という言葉が出てきそうだけど、何も癒されないんだよなあ。仕方ないんだから。言っても仕方ないから言うんだから、愚痴って。「仕方ない」→「お終い、首をくくるしかない」と一直線に行ってしまう2005年の日本で、どうすれば愚痴を言えるのだろう?と、愚痴を言ってみたくなった。
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