エレニの旅

 ユーロスペースで再見。やっぱ、スクリーン小せえよ!ぶつぶつ。何か、すごく損した気分。ああ、シャンテでもう一度見とくんだった!
 でも、やはり、つべこべ言う気にならないくらい、素晴らしい。エレニが子供たちを残して逮捕されるところの、長回しのパンから鏡を使って車で連れ去られるところまでワンシーンで取りきるところとか、すごいなあ、と改めて感動する余裕が二度目だと出てくる。
 冒頭の人々が歩いてくるシーン。どこから来たのかと言う問いかけが発せられるが、そんな言葉の問いかけ以前に、海なのか、河なのか、湖なのか、岸部から忽然と現れた人々の姿が、彼らはその水の中から現れたのであり、この地上に出身などありはしない人々なのだ、という事実を語っている。この冒頭から、映像が言葉に勝利している。姿も見えない、画面の外からの問いかけに族長らしき男は答え始めるが、その答はある意味事務的なナレーションに置き換わっていく。
 この画面の内部と外部の出入りが、この映画では常に音を介して行われる。画面へ入ってくる者はまず音から入ってくる。「音楽の溜まり場」でも、「白布の丘」でも、まず音で人々は登場を告げる。それは、マルコスの家でもそうだ。スクリーンの画面として切り取られた限られた空間と、音を介して繋がる画面の外の空間の間の交歓。それがこの映画の画面の空間を外部に向けて解放し、スクリーン以上の大きな広がりを持たせている。この映画において、音楽とは画面の外の空間なのだ。
 この映像の内部と外部の出入りの自由さとは裏腹に、エレニは様々な境界に閉じこめられることになる。革命のロシアを逃げ出すものの、自分の家でも洪水に閉じこめられるのだし、夫を追いアメリカに渡ることは出来ないし、刑務所に長年監禁されることにもなるし、立場を違えた子供たちは境界を巡り戦うことになるのだし、その子供たちの遺体すら水により隔てられるのだ。主題的に厳然と立ちふさがるこれらの境界の存在に対して、テオ・アンゲロプロスは、映像と音で画面という境界を、軽やかに自由に行き来して見せる。映像と音による圧倒的な解放と、ギリシアの被ってきた弾圧と分断の歴史の悲哀の対照は、対位法ではなく、生と歴史、個人と国家、映像と物語の戦いなのだ。その映像と音の手捌きの見事さによって、彼の映画はここでも物語に対して勝利する。この彼の映画が感動的なのは、映像が物語に対して勝利しているからだ。